ホス・アレンHoss Allen(1922-1997)、テネシー州ガトリンバーグ
WLAC局ディージェイの最後のメンバーがホス・アレンだった。
幼い頃、いつかショービジネスの世界に入ることを夢見ていた。バンダービルト大学Vanderbilt Universityでの学業は、大学入学後わずか1年で兵役に召集されたことで終わりを告げた。
米軍慰問団のショーでドラムを演奏した。兵役後、短期間演技を学び、1948年にWLAC局で働くことを決めた。
26歳だったホスは、ディージェイ・ビジネスの経験は全くなかった。ディージェイとして当然やるべき任務をし、後にWLAC局の営業と制作に移った。ジーン・ノーブルズの予備ディージェイも務めた。
1955年、ジーン・ノーブルズの番組を引き継いだ。アレンは後にWLAC局を離れ、チェス・レコードで働くことになる。
1963年、彼がWLAC局に戻ると、ニュース&トーク・ラジオとゴスペル・ミュージックという構成に変わっていた。
ジーン・ノーブルズとホス・アレンは、WLAC局では大酒飲みだった。アレンは1971年にアルコール依存症から立ち直ることができた。彼はWLACでアルコールにおぼれたことを後悔しているが、ザ・ホスマンthe Hossmanと呼ばれたことはいい思い出だ。
ザ・ホスマンは全国の女性からたくさんのファンレターをもらっていた。ある日、アレンはリスナーの女性から、彼のために夫と別れ、赤ん坊を連れてナッシュビルに来るというファンレターを受け取った。アレンが心配になったのは、ある朝その女性がバス・ステーションに現れたときだった。アレンは、WLAC局の別のディージェイにバスターミナルで彼女に会ってもらい、アレンの心からの謝罪を伝えた。そのディージェイはラジオ局に戻ってきて、彼女を精神的な問題を抱えたずんぐりした黒人女性だと説明した。数ヵ月後、その女性はザ・ホスマンに手紙を書くのをやめた。WLAC局で働くようになったディージェイは、アレン、ノブルス、リッチボーグが全員白人であることに驚いたものだったのだが、放送ではみんな黒人のように聞こえたからだ。