第3章
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第二次世界大戦後からロックンロール誕生までのレコード産業
「著作権法がほとんど保護しなかったため、黒人アーティストだけが苦しんだ」。
アーノルド・ショーArnold Shaw
RCA、コロンビアColumbia、マーキュリーMercury、キャピトルCapitol、M G M、デッカDeccaといった40年代から50年代にかけて活躍した大手レコード会社は、第二次世界大戦後、アメリカで通常の活動を再開した(戦時中は、レコードを作るための原料が戦争に必要だった)。戦後も大手レコード会社には人種差別が存在し、黒人アーティストやその音楽のレコーディングを拒否した。例外は、ナット・キング・コールNat King Cole、ミルス・ブラザーズThe Mills Brothers、インク・スポッツThe Ink Spots、カウント・ベイシーCount Basie、エラ・フィッツジェラルドElla Fitzgerald、ルイ・アームストロングLouis Armstrong、レナ・ホーンLena Horneのような、白人の主流文化にとても人気があったアーティストたちだった。
これらのレコード・レーベルのほとんどは、黒人文化が貧しすぎてレコードを買うことができないため、黒人音楽は金にならないと理屈付けしていた。
しかし、第二次世界大戦後、リズム&ブルースという新しいスタイルのレース音楽がアメリカで聴かれるようになった。これは、アメリカの中で一握りのディージェイが、この新しい黒人音楽を専門的に扱った結果だった。白人が所有するいくつかの独立系レーベルがこの流れに乗り、黒人アーティストとその音楽レコードを作り始めた。例えば、アトランティック・レコードAtlantic Recordsは1948年にニューヨーク市でスタートした。チェス・レコードChess Recordsは1948年にシカゴでスタートした。モダン・レコードModern Recordsは1945年にロサンゼルスでスタートした。これらの会社は、アメリカ中で見つけられる最高の黒人タレントを常に探していた。会社の重役たちは、黒人アーティストが音楽を演奏している黒人のクラブやお店を訪れ、才能ある黒人アーティストにオファーする契約を結んで全米を回っていた。
アトランティック・レコードのオーナーであるアーメット・アーティガンAhmet Ertegunは、ニューヨークからニューオーリンズまで車を走らせ、黒人アーティストに契約をオファーしたというエピソードを語っている。
ニューオーリンズ郊外の沼地を歩いて地元の黒人クラブを見つけ、このアーティストにアトランティック・レコードとの契約をオファーした。アーティガンは、そのアーティストが他のレコード会社と契約したばかりだと聞かされた。アーメットは問題ないと言った。「レコードのラベルに印刷する名前を『プロフェッサー・ロングヘアProfessor Longhair』に変えるだけで良い」(2010年のラジオ・インタビュー)。
キング・レコードKing Recordsのオーナー、シド・ネイザンSyd Nathanは、黒人アーティストにキング・レコードとの契約をオファーすることに非常に興味を持っていた。
彼は、このアーティストがシンシナティの黒人街周辺のいかがわしいホテルに滞在しているのを突き止めることができた。すぐにそのホテルに行き、アーティストのホテルのドアをノックした。ドアが開き、キング・レコードのオーナーが自社とのレコーディング契約書を持って自己紹介した。男は興奮のあまり、女を服も着せずに部屋から放り出した(彼女は裸だった)。 2010年のラジオ・インタビュー。