ディック・クラークDick Clark(1929-2012)、ニューヨーク州ブロンクスビル
ディック・クラーク①
ディック・クラークは「アメリカ最古のティーンエイジャー」として記憶されている。初期のディージェイのパイオニアたちとは異なり、クラークは幸運にもテレビを通じ、ロックンロール・ミュージックによってティーンエイジャーに影響を与えることができた。彼の放送は全国の視聴者に届き、彼らが全国のティーンエイジャーにロックンロール・ミュージックの良さを広めてくれた。17歳のとき、ニューヨーク州北部のラジオ局セールスマンとしてキャリアをスタートさせた。1952年、クラークはフィラデルフィアで「キャラバン・オブ・ミュージックCaravan of Music」というラジオ番組のディージェイとして働くことになる。その会社の系列テレビ局には「バンドスタンドBandstand」というティーン向けのダンス番組があった。
1956年、ひょんなことからその番組のホストを務めることになる。「バンドスタンド」の成功はクラークの貢献如何と言うことになり、番組は1957年に「アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstand」として全国放送されることになる。
この番組の初代司会者はビル・ホーンBill Hornだったが、1956年に法定強姦罪で逮捕・訴追され、解雇されることになる(無罪が確定)。
クラークは生涯、ロックンロール・ミュージックの熱烈な支持者、擁護者になった。彼は、ティーンエイジャーだけでなく、もっと重要なアメリカの大人たちに、ロックンロールはまともな音楽だとする主要な力となった。
アラン・フリードは、黒人音楽をロックンロール・ミュージックに変えて、5本のハリウッド映画を通じてポジティブなイメージを作り上げ、大成功を収めたのだが、クラークはそれとは違って、最初、10代の若い白人タレントに焦点を当てるという自分のやり方を貫いた。当初、「アメリカン・バンドスタンド」で白人アーティストを優遇したことで批判された。ロックンロールをソフトにしすぎ(サン・レコードSun Recordsのオーナー、サム・フィリップSam Phillip)、音楽を清潔感溢れるものにしたことで常に非難されてきた。
彼はロックンロールをさわやかな歯磨き粉のような「ペプソデント・ポップ・ミュージックPepsodent pop music」に変えたと非難されていた。
当初、ディック・クラークの「アメリカン・バンドスタンド」は、ポール・アンカPaul Ankaの「ダイアナDiana」、ニール・セダカNeil Sedakaの「オー・キャロルOh Carol」、
ボビー・ライデルBobby Rydellの「ワイルド・ワンWild One」、ボビー・ダーリンBobby Darinのスプリッシュ・スプラッシュ「Splish Splash」、
フランキー・アバロンFrankie Avalonの「ビーナスVenus」、フレディ・キャノンFreddie Cannonの「タラハシー・ラッシーTallahassee Lassie」、
フェビアンFabianの「ターン・ミー・ルースTurn Me Loose」、コニー・フランシスConnie Francisの「フーズ・ソーリー・ナウWho’s Sorry Now? 」などのロックンロール・ミュージックを、50年代の敵意に満ちた白人成人文化に売り込んだ。