3-12.ティアーズ・オン・マイ・ピローTears On My Pillow-インペリアルズThe Imperials(シルベスター・ブラッドフォードSylvester Bradford、アル・ルイスAl Lewis)
58年5月29日録音、58年7月エンドEndのシングルとして発売:R&B2位、ポップ4位
『リトル』・アンソニー・ゴーディン”Little” Anthony Gourdineを生んだ近所では、アンソニーはおそらく小さいを意味する呼称を本名につけるのは嫌だっただろうが、ラジオでは、アラン・フリードAlan Freedがジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerのアーティスト養成所出身の最新ヒットメーカーたちを紹介するときに初めて言い、気にも留めなかった。
ゴーディンは1955年にデュポンツThe DuPontsというグループと一緒に歌い始め、1年後にチェスターズThe Chestersという別のグループを結成し、結局――ゴールドナーの右腕のリチャード・バレットRichard Barrettによって――1958年半ばに、ゴールドナーのエンド・レコードEnd labelでのレコーディング・セッションで最終形になった。
チェスターズからインペリアルズへの名称変更は、最初のシングル発売の直前に行われた。
この素晴らしいセッションからオープニングの不朽の歌詞である『君は僕を覚えていない/でも僕は君を覚えている/そんなに昔のことではない/僕の心を真二つにして/枕でぬれた枕』をゴーディンがユニークなソプラノ/ファルセット・ボイスで歌ったが、裏面も同じくらい素晴らしく、実はこちらが先にブレークした――それが「トゥー・ピープル・イン・ザ・ワールドTwo People In The World」だ。
エンドのこの最初のシングルは、元々はアンソニーの名目を表に出さずに発売され、グループの新名称のインペリアルズをフィーチャーした。リリースとほぼ同時に、フリードが使った『リトル』というニックネームが本人だと分かる要素となったので、ゴールドナーは売れ行き好調なシングルの次回プレスを『リトル・アンソニーとインペリアルズ』のクレディットに変更した。
多芸多才なグループは1970年代に入っても成功し、ポップスタイルでラスベガスにおいても大群衆の前で演奏し(ほとんどどのドゥーワップ・グループもかつて成し遂げなかった)、アンソニー(60年代により良い場所を求めてグループがゴールドナーのもとを去ると、アンソニーとして知られることを要求した)とインペリアルズは期間は短くてもヒットしたキャリアを維持したドゥーワップ・グループの一つとなり、とりわけ、1959年の「シミ・シミ・ココバップShimmy, Shimmy, Ko-Ko-Bop」(転落の原因となったこの年のペイオーラ捜査の後に、ニューヨークのラジオに別れを告げた時に掛けた曲)、と「ゴーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッドGoin’ Out Of My Head」(1964nenn )などがヒットした。