2-10.オー・ホワット・ア・ナイトOh What A Nite-デルズThe Dells(マービン・ジュニアMarvin Junio、ジョニー・ファンチェスJohnny Funches)
56年8月ビー・ジェイのシングルとして発売:R&B4位
バックの楽器はあまり重要でないことの良い例がドゥーワップにはたくさんあり、「オー・ホワット・ア・ナイト」は純粋なボーカルの才能によって成功し、メンバーを一人変えただけで何年間も活動を続けた(そしてレコードを売った)。素晴らしいアレンジが功を奏してデルズはリード・シンガーのオープニング(「オー・ホワット・ア・ナイト」)を完成させ、伝えられるところによれば、この歌はデルズが5人組の素敵な若い女性たちと楽しんだ夜に捧げて書かれたものだ。
珍しい話ではないが、最初の数枚のシングルがヒットしなかったことに失望してグループが解散した後にレコードがヒットした。それらのシングル(「テル・ザ・ワールドTell The World」、「ドリームズ・オブ・コンテントメントDreams Of Contentment」に加えて、別のレーベルでのエル・レイズThe El Raysとしての正に最初のレコード)は、グループ・マニアから崇められているが、当時はすぐに見捨てられ、友人であり先輩でもあったムーングロウズThe Moonglowsが、「オー・ホワット・ア・ナイト」がヒットしていると知らせてくれて初めて再結成した。
デルズは二度と解散しようとはせず、それどころか60年代、70年代、80年代に様々なレーベルから次々とヒット曲を出し、その間、R&Bを40曲以上、ポップを20曲以上ヒットさせた。「ゼア・イズThere Is」、「ステイ・イン・マイ・コーナーStay In My Corner」、「ギブ・ユア・ベイビー・ア・スタンディング・オベイションGive Your Baby A Standing Ovation」は、そのおかげでデルズがR&Bとソウルの主要なボーカル・グループとして存続できることになった曲のほんの一部であり、「オー・ホワット・ア・ナイト」はそのすべての出発点だった。
おそらくこの物語の究極の皮肉は、1969年に彼らが「オー・ホワット・ア・ナイト」の『現代』ソウル・バージョンのレコードを出して、ポップ・チャートを上がって行った――オリジナルにはできなかったこと――だけでなく、リズム・アンド・ブルース・チャートでもトップになったが、これは彼らのキャリアで唯一のナンバー・ワンだった。56年に友人であるムーングロウズの話を聞いてよかった。
トリビアのマニアなら知っていると明らかに喜ぶ話だが、この曲のレコーディングの際、ビー・ジェイ・レーベルVee Jay label幹部のカルビン・カーターCalvin Carterが、グループのレギュラー・メンバーのルーシャス・マクギルLucius McGillの代理を務めた。