ザ・ドゥーワップ・ボックス Ⅰ-2
ロックンロールのゴールデン・エイジからボーカル・グループの珠玉の101曲
1曲ごとの解説
ボリューム1 Volume One ドゥーワップ誕生The Birth Of Doo Wop(1948-1955)
1-1 イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウIT’S TOO SOON TO KNOW-オリオールズThe Orioles(デボラ・チェスラーDeborah Chessler)
48年7月イッツ・ア・ナチュラルIt’s A Naturalのシングルとして発売、48年8月ジュビリーJubileeのシングルとして再発売:R&B1位、ポップ13位
ラップとテクノ‐ポップの現代に、1948年当時このレコードがどれほど革新的だったかを認識することは難しいかもしれないが、白人社会に「ロック・アラウンド・ザ・クロックRock Around The Clock」が与えたのと同じインパクトを黒人社会に与えたということを信じてほしい
この途方もないシングル・レコード以前には、インク・スポッツThe Ink Spots、ミルス・ブラザースThe Mills Brothersなどの黒人ボーカル・グループは、受け入れられやすいポピュラー感覚で歌う、ポピュラー音楽を聴く白人向けだった。
ソニー・ティルとオリオールズSonny Til and Oriolesは、この曲で1948年夏にあっという間にすべてを全く変えてしまった。
メリーランドの州鳥から名前を取ったこのバルティモアのグループは、明確に黒人の聴衆に向けたスタイルで最初に歌った。黒人コミュニティーがティーン・アイドルを探し求めていた時に、ティルはちょっとしたアイドルになった。グループがバックで「ハーモニーを吹奏」(彼らがバックの音を吐き出すので)して、ティルがゆっくりしたロマンティックなバラードを演奏すると、ハーレムの若い女性たちは本当に熱狂した。ティルの情熱のこもったボーカルは深みのある、正直な人間らしい感情を表現するが、それは以前の白人だけでなく黒人のポップシンガーにもなかったものだ。
このグループの成功の陰(そして彼らはニューヨークのJubileeレーベルで素晴らしい(7年の)経歴を踏んだ。)には、”It’s Too Soon To Know”など数曲を書き、グループのマネージャーも務めたソングライター、デボラ・チェスラーDeborah Chesslerの存在があった。この年の早い時期に彼女は、アーサー・ゴッドフレイArthur Godfreyのタレント・スカウトTalent Scoutsというテレビ番組に彼らを出場させることができたし、ピアニストのジョージ・シアリングGeorge Shearing(素晴らしい出来だった。)に負けた時、チェスラーChesslerとグループは、放送のためにニューヨーク滞在中に、レーベル・オーナーのジェリー・ブレインJerry Blaineに会った。
「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウIt’s Too Soon To Know」は評判の悪いジェームス・ペトリロJames Petrilloのミュージシャン組合の40年代のレコーディング禁止の一つが終わるちょうどその時に録音され、ティルによれば、ボーカルをレコーディングした後、1週間ほど経ってから小音量の楽器演奏(録音ではかろうじてだが聞こえる。)がオーバーダブされた。
ブレインBlaineはこの曲を、『イッツ・ア・ナチュラルIt’s A Natural』という自分が作った新しいレーベルから発売したが、レーベル名が似ているとナショナル・レコードNational Recordsから苦情があって、以前イディッシュのコメディー・レコード用に使っていたジュビリーJubileeというレーベルにすぐに切り替えた。
この曲はすぐに黒人向けのレース・チャートでヒットして、エラ・フィッツジェラルドElla Fitzgerald、レイブンズThe Ravensなど7人以上のカバー曲が出た。
オリオールズThe Oriolesのバージョンは全国的な最大ヒットではなかったが、それにもかかわらずポップチャートに載り(黒人マーケットでは第1位になった)、リズム・アンド・ブルースのボーカル・グループ興隆への道を拓いた。
また、黒人ボーカル・グループに鳥の名前を付けることを流行らせたのは(レイブンズThe Ravensとともに)彼らのせいであり、スワローズThe Swallows、ラークスThe Larks、カーディナルスThe Cardinals、
ブルージェイスThe Bluejays、フラミンゴスThe Flamingos、
クロウスThe Crows、レンズThe Wrensなどうんざりするほどある。
オリオールズThe Oriolesは、黒人社会で自分たちの曲がたくさん売れ、1953年に最大のヒットを記録したが、それは皮肉にも白人社会のカントリー・アンド・ウエスタン、”クライング・イン・ザ・チャペルCrying In The Chapel”のカバーだった。その話は後ほど。