1953年春――ラテン音楽のレーベル・オーナーのジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerは自分にとって初のR&BレーベルのラマRAMAを始め、その後この年の夏にアマチュアっぽいボーカル・グループであるクロウズThe Crowsの「ジーGEE」という曲を録音してリリースした。
このレコードは最初売れなかった(裏面の「アイ・ラブ・ユー・ソーI Love You Soは、一人でにどんどん売れた」が、ゴールドナーはそのままR&B業界に残り、再び(精力的に)活動した。
一方、フラミンゴスThe Flaminngosは今までで最高のR&Bボーカル・グループとよく言われていて、シカゴのチャンス・レコードChance Recordsで最初のシングルをレコーディングした。
1953年夏――カントリー・アンド・ウェスタンでゴスペルの曲、「クライング・イン・ザ・チャペルCrying In The Chapel」にはたくさんのカバー・バージョンがあったが、オリオールズthe Oriolesはポップ・チャートで高い位置になった。
それは、本物のリズム・アンド・ブルースとして、最初のクロスオーバー・レコードだということを意味し、多くの白人のバージョンと比較してもうまく競争した。
1953年秋――クライド・マクファターClyde McPhatterはドミノーズThe Dominoesを辞めてドリフターズThe Driftersを結成し、後に、50年代と60年代の初期の黒人ボーカルグループの中で最も成功した二つの一つになった。
彼らの初ヒットの「マネー・ハネーMoney Honey」は素晴らしい、ゴスペルの抑揚をつけたストリングを基調として打ち出したレコ―ディングだった。
1954年――R&Bボーカルグループは間違いなく本領を発揮して、レコーディングしたグループの数は4倍になり、このトレンドに主力のレコード業界が気付いた。
1954年春――1年近く前に録音されたクロウズThe Crowsの「ジーGEE」は勢いを増して、ロックンロール・ボーカル・スタイルと考えられるかもしれない最初の曲として、ポップ・チャートでヒットした。
楽器の使用はまだ後になって思いついたことだった。たぶんもっと意義のあったことは、アトランティック・レーベルAtlantic labelのグループのゴーズThe Chordsが、軽快で意味のない音節が盛り込まれた「シュ・ブームSh-Boom」という曲のレコードを出したことだ。
大手レーベルの白人グループのクリュー・カッツThe Crew-Cutsは、このレコードをカバーしてより大きなポップ・ヒットになったのだが、翌年にピークに達するという手法を作り出した。
1954年夏――ハンク・バラードとミッドナイターズHank Ballard & The Midnightersの「ワーク・ウィズ・ミー・アニーWork With Me Annie」が、R&Bレコードの「みだらな歌詞」への激しい抗議の焦点になり、この闘争を先導したのは主流の音楽出版コングロマリットの全米音楽著作権協会だった。