ジャギー・マレーJuggy Murrayは実は、夏の陰の戦いの一つの中心にいた。スー・レコードSue recordsはニューヨークにある一つしかない黒人所有のレーベルだった。
別のレーベルのファイア・レコードFire recordsは、波乱に富んだボビー・ロビンソンBobby Robinsonが所有していて、ロビンソンは125番ストリートに面していてハーレムにある有名なアポロ・シアターApollo Theaterにとても近い1946年創業のレコード店を所有していた。
ロビンソンは長年レーベル所有者としてレコード業界で遊び、Ertegun兄弟がアトランティック・レコードAtlantic recordsを操業するときに手伝ったと主張している。
確かなことは、洗練されていないニューヨーカーなら買わない音楽を売り、全国ヒットさせるコツをロビンソンは知っていて、リーバーとストラーLeiber and Stollerが作ったウィルバート・ハリソンWilbert Harrisonによる「カンサス・シティCansas City」の1959年のガタガタしたバージョンをトップにし、1960年には、エルモア・ジェイムスElmore Jamesの「ザ・スカイ・イズ・クライングThe Sky Is Crying」でもう少し小さなヒットを作り、それに続けてさらに当時としては全くの時代錯誤だったエルモアの「ダスト・マイ・ブルームDust My Broom」を録音した。
ロビンソンはライトニン・ホプキンスLightnin’ Hopkinsによるレコードを出したが、ライトニンは、お金を払ってくれればどこででもレコーディングをし、ライトニンの「サンタSanta」としか分からないクリスマスのレコードをリリースした栄誉にあずかっている。
1960年、ロビンソンはニュー・オーリンズに行きボビー・マーチャンBobby Marchanの「ゼア・イズ・サムシング・オン・ユア・マインドThere Is Something on Your Mind」を携えて帰ってきたが、この曲の半分は恋人の裏切りに合って陰気に考え込み、半分は身の毛もよだつ一人称の殺人物語だ。
マーチャンは、ヒューイ・ピアノ・スミスズ・クラウンズHuey “Piano” Smith’s Clownsのリード・シンガーとして最も良く知られていたが(実はマーチャンはトランスジェンダーであり、女装してボビーBobbiとしても演奏していた。)、ここで彼は完全に違う立場に立った。
ラジオがこの曲のパート・ワン(何の後押しもない曲)がチャートのトップになり、ロビンソンRobinsonが、「エブリ・ビート・オブ・マイ・ハートEvery Beat of My Heart」の2枚目のピップスPips・バージョンで多少成功した後、更なる成功を求めてニュー・オーリンズに戻った。ロビンソンは自動車修理工場を所有しバーで歌っているリー・ドーシーLee Dorseyを見つけ、レコード契約を申し出た。彼らに必要なのは曲だけで、ある午後、ドーシーの家のベランダに座ってビールを飲んでいると、子供が縄跳びをしながら「ララに座って、イエイ・イエイ」と繰り返し歌っていて、少し手を加えて歌にした。
翌日それをAFOレコード A.F.O.recordsのハロルド・バティステのところに持っていくと、ハロルドは、翌日アレンジして、レコーディングの用意をしておく約束した。バティステは必ず約束を守り人で、典型的なファンキーのアレンジを、B面と一緒に急いで作って用意しておいた。ロビンソンはハーレムに戻ってきたときは満足だった。一方、AFOは最初のレコード、プリンス・ラ・ラPrince La Laの「シー・プット・ザ・ハート・オン・ミーShe Put the Hurt on Me」をリリースし、あまり良く売れなかったものの、町に新たなサウンドが誕生したことを正式に知らせることとなった。
続いてバーバラ・ジョージBarbara Georgeの「アイ・ノウI Know」を出し、ジャギー・マレイJyggy Muffrayの手助けも有って実に好調だった。
そしてボビー・ロビンソンが自分のフューリー・レーベルFury labelを復活させて、リー・ドーシーLee Dorseyの「ララLa-La」を始めた時、マレイはその曲を聞き、ニュー・オーリンズでそれをレコーディングできるのはただ一つのコンボしかないと気が付いた。
マレイは好機を待ち、ジョージのレコードで金をもうけた後、ハロルド・バティステHarold Battisteに電話をして、ジョージをスーSueレコードと契約させたと言い、ロビンソンRobinsonのためにドーシーDorseyをレコーディングさせることによってAFOのタレントを使うことは独占契約違反になると主張し、彼らのレコードをこれ以上流通させることを断った。
AFOはしっかりした地元のレーベルとして頑張り続けるつもりであったが、これが致命傷になることが分かるにはしばらくかかった。