大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート3 第4夜
2013年3月29日放送
(放送内容)
1950年前後にロックンロールのルーツとなった会社がたくさんありましたけども、その中からキング・レコードを選びましてお話していきたいと思います。
題しまして、キングレコード物語。それではまず三橋美智也さんのりんご村から、では無くアメリカの方のキングレコードであります、って当たり前だよねこれ。
Train Kept A-Rollin’ /Tiny Bradshaw
本日はオハイオ州のシンシナティにありましたところのキング・レコードから始めようと思います。
この会社の創立は1943年といいますから戦中ですね。最初はカントリー色が強い、それを中心にリリースしていたんですけども、50年代に入りますとR&B色を強めて行って、ロックンロールの源流を作ったアーティストをたくさん輩出した会社でした。この会社は有能なA&R、日本で言うところのディレクターですね。音楽ディレクターをたくさん採用したという、そういう特徴がありました。まず最初はヘンリー・グローバーHenry Bernard Glover、彼はキングのスタジオ建設にも関わっていて、キング・サウンドの基本を作った人です。いま後ろで流れているタイニー・ブロッシュTiny Bradshawのザ・トレイン・ケット・ア・ローレンThe Train Kept A-Rollinもヘンリーグローバーが手がけたものでした。キング・レコードは1950年に、R&B専門の子会社フェデラルFederal Recordsを作ります。そこに専任のディレクターとして、ジャズファンにはおなじみのサヴォイ・レーベルFederal Recordsで働いていたラルフ・バスRalph Bassを呼んできます。
彼が最初に担当となったグループはビリーウォードとドミノーズBilly Ward and his Dominoesです、シックスティ・ミニッツ・マーンSixty Minute Manのヒットがありましたけどね。そのドミノーズを担当しました。その次に、ジェリー・リーバJerome “Jerry” Leiberとマイク・ストラMike Stollerの曲をかなり早くに取り上げていたのも、このラルフ・バスでした。
K.C. Lovin’/ Little Willie Littlefield
歌っていたのは、リトル・ウイリー・リトル・フィールド、どれだけ小さいんだという感じですけど。リーバ・ストラがつけたタイトルは、カンサス・シティーKansas Cityでしたが、ディレクターがケー・シー・ラビンK.C. Lovin’というタイトルに変えました。
このレコードのリリースは1952年ですから、まだリーバ・ストラはハウンド・ドッグを書いていない時期なんですね。そのころに二人の才能を見抜いていたという、このラルフ・バスというディレクターはレッサーセル、レルフサテガンと並んで、慧眼の士ということでしたね。ケーシーラビング以外にも、リーバ・ストラにずいぶん書かせたんですけども、どれも全くヒットしなかったんですね。この二人の関係はここで終わりました。もし、ここで成功していましたら、リーバ・ストラは、アトランティックで無くキングで仕事をしていたかも知れないですね。ラルフ・バスが次に担当したのがミッドナイターズThe Midnightersです。ワーク・ウィズ・ミー・アー二ーWork with Me, Annieのヒットがありましたけど、そこからアニー・シリーズが始まりますね。
第2弾はセクシー・ウェイズでした。
Sexy Ways / Hank Ballard & The Midnighters
タイトルもセクシー・ウェイズSexy Waysですから、セクシーな内容ですけど、これも2位となるヒットでした。54年にはトップ・テン・ヒットが4曲もあったハンク・バラードとミッドナイターズHank Ballard & The Midnighters、彼らは人気グループでした。
このミッドナイターズはデトロイトで結成されたグループです。
このミッドナイターズのハンク・バラード、それから、ドミノーズのリード・シンガーだったジャッキー・ウイルソンJack Leroy “Jackie” Wilson Jr.、二人ともデトロイトで育ちました。
同じくリトル・ウィリー・ジョンLittle Willie Johnという、彼もデトロイト出身のシンガーでしたね。
そして56年には、ナンバーワンヒットを飛ばしました。
Fever/ Little Willie John
これオーティス・ブラックウェルなんですね、作ったのが。
だから彼は火の玉ロック、ドント・ビー・クルーエルもそうなんですけど、名曲ぞろいですね。
さてこのフィーバーのプロデューサーはヘンリー・グローサーHenry Glover。
彼が以前から担当していたアーティストにキーボード奏者にビル・ドケットBill Doggettがありました。56年になってロックンロール時代の到来で、その雰囲気を取り入れて、アレンジしたホンキー・トンクHonky Tonkが、R&Bで1位、ポップチャートでも2位になるビッグヒットとなったのです。
Honky Tonk/ Bill Doggett
それまで全くヒットが無かったのに突然ですね。56年にR&Bで1位で、ポップチャートで2位になったという、これが大きいですね。ビル・ドケット楽団の大ヒットで、ここからロック・インストの時代が始まったといっていいでしょう。続く第2弾はスロー・ウォーク。
Slow Walk / Bill Dogget
このスロー・ウォーク、ポップは26位でしたが、R&Bでは4位とR&Bファンには好評でした。ダイヤモンズのカム・レッツ・ストロールというのがありました。
これはこれを元にしてるように感じますけどね。さてラルフバスと同じころにサヴォイ・レコードでディレクターをしていたのがバック・ラム Buck Ramです。彼はバンド・リーダーで作曲家でしたが、その彼が51年にロサンゼルスでプロダクションを始めました。そしてインク・スポッツThe Ink Spotsを想定して自分の曲を歌わせるグループを探していたんですね。そのグループをキングに売り込みました。そのグループは53年から合計7枚のシングル版を出したんですが、どれも全く売れませんでした。最後の7枚目となったシングル版はこの曲でした。
Only You / The Platters
聴きなれたプラターズのオンリー・ユーとはかなり違った印象だったと思いますけど、こちらが先に録音されたバージョンです。いくつかバージョンが存在してますけども、とにかく何度も何度も歌わされたんだそうですね。途中でリード・シンガーのトニー・ウイリアムスTony Williams 、アッアーというのがありましたね。あれは、それを最初に聞いたときはバックのメンバーは一斉に笑ったそうですけども、しかし、それがこの歌の一番の聞かせどころになったわけですからね、これまた、世の中何が功を奏するかということは全く分からないもんですけど、しかし、これも全くヒットせずで、7枚もシングルを出したけれど全く売れなかったので、キング・レコードの社長は契約を切ってしまったんですね。しかし作者のバック・ラムは、あきらめません。ちょうどそのころ、アース・エンジェル・アース・エンジェルのヒットがあったペンギンズThe Penguinsのマネージメントも引き受けることになったんです。で、ペンギンズをマーキュリーMercury に売り込んだんですね。で、その際に抱き合わせでプラターズを付けたんです。プラターズはペンギンズの付け合せだったわけです。1955年4月26日、ロサンゼルスのキャピトル・スタジオで際吹き込みされましたところのオンリーユーはマーキュリーレーベルから発売されました。
Only You(re-recording)/ The Platters
デモのバージョンでは、このアッアーというのは一度しかないんですが、これは2度あるのがミソですね、このマーキュリー版は。それにしても、ベースがしょっちゅうミスを犯してましたけど。R&Bでは1位でしたが、ポップ・チャートでも5位でした。こっからプラターズはジャンジャンヒットを飛ばしていくわけです。ちょっと前まではプラターズより圧倒的に有名だったペンギンズですけど、マーキュリーに移籍してからは全くヒットが出なくなりました。キング・レコードKing Recordsのシド・ネーザンSyd Nathanは相当悔しがったと思いますねえ。
ドル箱をみすみす逃したわけですからね。こういうことが多いのも、キング・レコードの特徴といえばそうなんですけども、しかし、捨てる神あれば、拾う神ありで、56年のフェデラル・レーベルから、この人がデビューしました。
Please Please please/James Brown
もっともこのジェームス・ブラウンも社長のシド・ネーザンは気に入らなかったんだそうで、ディレクターのラルフ・バスがプッシュしたので契約したのだそうです。この社長、危うく同時に、大魚を逃すところだったんですね。ジェームスブラウンの第2弾のヒットは同じバラード路線のトライ・ミー、これの録音はニューヨークで、ニューヨークのミュージシャンを使って行われました。
Try Me/James Brown
いいバラードですね。ジェームス・ブラウンとフェーマス・フレームス James Brown and The Famous Flamesでトライミーでした。これはR&Bナンバー・ワンです。いい曲ですからね。ポップ・チャートでも48位にランクされました。ちなみにこのドラムを叩いていたのはパナマ・フランシスPanama Francis、パナマ帽をいつもかぶっているのでパナマ・フランシスというんですけど、この人はコニー・フランシスのカラーに口紅も叩いていまして、コニーフランシスからジェームスブラウンまで、当時一番セッション数の多いドラマーでした。
ジェームス・ブラウンはアポロ・シアターで人気が出ていたのをラルフ・バスが見て契約したんですね。
同じ時期にアポロで人気があったのはジョー・テックスがそうなんですね。こちらはヘンリーグローバーが契約して、キングレーベルから発売しました。同じ会社内で、ディレクター同士の闘いとなったわけですね。
Come in This House /Joe Tex
ジョー・テックスのカミン・ディス・ハウス。ジェームス・ブラウンとジョー・テックスは同じ会社の同期デビューだったんですね。ジェームス・ブラウンは最初からヒットしました。一方のジョーテックスは、この後13枚連続ヒットせずという不名誉な大記録を打ち立てまして、初ヒットが出たのはデビューから10年後の65年のことでした。しかしジェームス・ブラウン、ジョー・テックスより、当時アポロで人気があったのはファイブ・ロイヤルズでした。結果的に、このジェームスブラウン、ジョーテックス、ファイブロイヤルズは、全員キングレコードに集まったわけですね。しかしファイブロイヤルズもジョーテックス同様に全くヒットしませんでした。57年になってようやくキングレコードに来てから初めてヒット曲が誕生しました。
Tears Of Joy/The Five Royales
これは9位で、ようやくファイヴ・ロイヤルズもこれで、面目が保たれたという、そういう感じですねえ。このグループのリーダー、ローマン・ポーリン Lowman Paulingは、ギタリストで作曲もします。次の楽曲のオリジナル・グループだったことで、後で有名になりました。
Dedicated To The One I Love / The Five Royales
これはシュレルズがカバーして第3位でした。ママス・アンド・パパスThe Mamas & The Papasの愛する君にDedicated To The One I Loveは、2位にランクされて大ヒットとなっていましたが、オリジナルはファイヴ、ロイヤルズで、作曲はギターを弾いていたこのローマン・ポーリングでした。
ファイヴ・ロイヤルズはこのようなバラードだけでなく、アップテンポの曲もありました。ギタリスト、ローマン・ポーリングが作りましたシンク。
Think / The Five Royales
このシンクも9位となる大ヒットでポップでも66位にチャートされました。でもこれは曲よりもギタースタイルが、他のギタリストに与えた影響がすごかったんですね。後にエムジーズ Booker T. & the M.G.’sのギタリストとなるスティーヴ・クロッパーSteve Cropperはメンフィスに、このファイヴ・ロイヤルの演奏公演に来たんだそうですが、そのステージを見て、このローマン・ポーリングのギター・フレーズだけでなく、ギターの持ち方とか弾き方にも強い影響を受けたと発言してます。いわれて見ますとグリーン・オニオンGreen Onionsの原点はこれだという感じがしますねえ。で、シンクに続いてのシングルはセイ・イット。
Say it / The Five Royales
ローマン・ポーリングの、ギター・スタイルには、ずいぶん影響されたギタリストは多かったようですよ。続いての曲はアップテンポものの続編とも言えるザ・スラマー・ザ・スラムという曲です。タイトルにスラムという語句が入っているのも斬新でしたね。
The Slummer The Slum / The Five Royales
このスラマーザスラムはB面だったんですけど、発表されたのは1958年でした。58年ということを考えますと時代的に、非常に斬新なアレンジですね。これが後にファンキー・サウンドと呼ばれる最初の曲ではないかという説を唱えている人もいます。ファイヴ・ロイヤルス煮影響を受けたジェームス・ブラウンは、このスラマー・ザ・スラム・アレンジで先ほどかけましたファイヴ・ロイヤルスのシンクをカバーしました。
Think(live) / James Brown
これはすごい曲ですね。それまでバラード・ヒットが多かったジェームス・ブラウンが、この曲で、もう、一気にリズム路線をスタートしました。これが発表されたのが1960年の4月です、チャートは7位、ポップでも33位でした。この楽曲の持ってる意味はチャート以上のものがあります。オリジナルのシンクとは、さっき聞いていただいたとおり全くの別物になっているんですけど、ファイヴ・ロイヤルズのスラマー・ザ・スラムのような、あれの影響下にありますよね。この後ジェームス・ブラウンは、この路線を突き進めて、たくさんの名曲を誕生させましたけれども、原点はこの曲なんですね。ホーンの絡ませ方とドラム隊、特にリズムがすごいですね、タタフトゥタっていう。ヘタウマっていいますか、ただ分かって叩いてんのかって言いたくなるような、不思議なフレーズなんですけど。ジェームス・ブラウンはデビュー曲から、数曲はスタジオ・ドラマーを使っていたんですが、このドラムを叩いているナット・ケンドリックNat Kendrick という初代のドラマーを見つけてからは、段々バンドのメンバーも定着していきました。
このナットケンドリックが実にいい味出してるんですね。このシンクがヒットしたすぐ後に、このドラマー名義のシングル盤が発売されました。マッシュポテト。
Nat Kendrick and The Swans – (Do The) Mashed Potatoes
ドゥー・ザ・マッシュポテトというタイトルですけど、マッシュポテトを水辺であの人と踊ろうでいうダンスですね。キーボードを弾いていたのがジェームス・ブラウンで、結局あのバックバンドが演奏していたんです。ただ、名義がナット・ケンドリック&スワンズという、そういうバンド名だったんですね。しかもリリースされたのがキングからではなく、マイアミのマイナーレーベルから出たんですね。なぜかといいますと、キングの社長はジェームス・ブラウンにインストはダメだと、歌入りにしろと言われたんで、別名を使って別レーベルから出したというわけです。ところが、これがR&Bで8位になったんです。さらに84位ではありましたが、ポップ・チャートにも登場しました。このころダンス・ブームがいかにすごかったかということです。とにかくジェームス・ブラウンという人はいろんな楽器をこなしますけども、自分でドラムも叩きますから、特にドラマーへの要求は厳しいんですね。常にいいドラマーはいないかと探していて、次々にドラマーを変えていくんですね。先ほどのシンクですけども、アポロ・シアターで演奏されたライブ・バージョンを聴いてください。かなりテンポアップされてます。
Think/ James Brown
62年12月24日のアポロ・シアター伝説のライブと呼ばれてるもんですけども、ドラムを叩いていたのはナット・ケンドリックではなく、クレイトン・フィリアスClayton Fillyau’sという人です。このクレイトン・フィリアスがドラムを叩いている曲、アイヴ・ガット・マニーを聴いてみましょう。
I’ve Got Money /James Brown
これは1962年の録音ですから、62年ということを考えると、このドラミングは衝撃的なアンサンブルなんですね。この、ダットカンダットカンというのは。このクレイトン・フィリアースはフロリダの出身です。プロになる前にフロリダでニューオリンズから演奏旅行に来ていたニューオリンズのグループを見て、そのグループのドラマーから直接教わったと彼は語っています。そのグループとはフューイ・スミス・アンド・クラウンズHUEY PIANO SMITH & THE CLOWNS、ドラマーはチャールズ・ハングリー・ウイリアムスCharles “Hungry” Williams。
High Blood Pressure / Huey ”Plano” Smith
58年のハイ・ブラッド・プレッシャーですけども、このドラマー、ハングリー・ウイリアムス、いつもお腹をすかしていたんでしょうか、彼の音は非常に太いんですね。右足を怪我したときに、左足でバス・ドラムを踏んでたという、ものすごいパワー・ドラマーでした。ジェームス・ブラウンの初代のドラマーであったところのナット・ヘンドリックも間違いなくこのドラムの影響を受けていると感じます。ではこのヒューイ・スミスの先達であるところのプロフェッサー・ロングヘアの音を聞いてみましょう。さらに時代は遡ります、1953年。
Tipitina / Professor Longhair
この複雑なドラムを叩いているのは、アール・パーマーEarl Palmerです。
ドラムのフレーズだけは、だいたいこんな感じではないかというのを聴いてみましょう。これのテンポを早くしてみましょう。では62年のジェームス・ブラウンのアイガット・マニーをもう一度。またまたアール・パーマーを。つまりテンポを早くしただけでドラムのアンサンブルはほとんど同じなんですね。この2曲の間には9年という歳月があるわけですけど、やはり原点が持っている構造の強さっていうものを感じますねえ。しかしテンポ・アップというのもポップスの歴史においては新発見で革命的なことなんです。ジャズ時代のビートはフォー・ビートですね。チーチャッカ、チーチャッカ、チーチャッカていうやつで、60年代には倍になって、エイト・ビート、ヒンティタタ、ヒインティタタ、ヒンティタタになりましたね。さらに70年代、さらに倍になってシックスティーン・ビートになりました。チータチータっていう。さすがに32ビートは入らなかったですけどね。これコンピュータ業界に似た感じがしますね。16ビット、32ビット、イチニッパとなりましたけど、関係ないですね。
Think / James Brown
その後時代のリズムが変化するたびにこのシンクをカバーしてアレンジしました。60年代ポップスの時代にあって、すでにこの路線を始めていたというジェームス・ブラウンは偉大なる先駆者でありました。さてジェームス・ブラウンの話はここまでで、ハンク・バラードとミッドナイターズを取り上げます。
54年にトップテンヒットを連発してスーパー・グループの仲間入りを果たした所まではお話しましたが、その直後からぴったりとヒットが出なくなって、58年には契約が切れてしまったんですね。そこでデモテープ作りにマイアミに出かけます。で、ジェームス・ブラウンがお忍びで、先ほどのマッシュ・ポテートーを録音していたスタジオと同じマイアミのスタジオです。このスタジオのオーナーはマイアミ一帯を取り仕切っていたヘンリー・ストーンHenry Stone、彼は後にマイアミ・サウンドで大もうけをすることになるんですけどもね、ここから20年後の話になりますけども、そのハンクバラードが吹き込んだデモソングとはこれでした。
The Twist / Hank Ballard & The Midnighters
これがツイストのデモ・バージョンなんですね。もっともこれは自分の以前の曲、イズヨーラブフォーリードIs Your Love For Realという曲があるんですが、これを改作したものでした。
Is Your Love For Real / Hank Ballard & The Midnighters
しかしこの曲もドリフターズからのいただきでした。
What’cha Gonna Do / The Drifters
完全にツイストのよりですね。それでも、このタイトルはゴスペル・グループのレディオ・フォーThe Radio Fourという、そのグループからのいただきで、そのゴスペル、もっと前、もういいですよね。ポップスは実に奥が深いのであります。
Twist / Hank Ballard & The Midnighters
さてこのデモを作ったハンク・バラードはVJレコードVee-Jay Recordsに売り込みました。
キングが嫌だったんですね。しかしこの話を聞きつけたキング・レコードの社長シド・ネイザン、ハンク・バラードの契約は切れていないと言い出したんですね。それでキングに呼ばれたハンク・バラードは、シンシナチーにほいほいと帰って行ったのでした。歌詞も大幅に変更してキング・スタディオで再吹込みされた、ザ・トゥイスト。
Teardrop On Your Letter /Hank Ballard & The Midnighters
デモ・バージョンとは大違いのすばらしいできでした。58年11月の録音ですから、デモをとってから半年後の再録音で、この間に曲を練り直していたんじゃないでしょうか。出だしのカモンベイビーてのはよかったですけどね。これがやっぱりミソですね。歌いだしが違いましたから。キングスタジオではカップリング用のバラードも録音されました。
Finger Poppin’ Time / Hank Ballard & The Midnighters
このティアードロップス・オン・ユア・レターズTeardrops on Your Letterですけども、ツイストとカップリングだったんですが、あろうことかツイストはB面だったんですね。
しかし、このA面のバラードはR&B4位にランクされてシングルとしては大成功でした。ハンク・バラードとしては4年ぶりのトップ・テン・ヒットでしたから、見事に復帰が叶ったということになりました。このヒットが出てからミッドナイターズはボルティモアの劇場で公演があったんです。
その時に、ボルティモアの若者がツイストに熱狂して、会場が興奮状態になったんです。というのも、ボルティモアといいますとアメリカン・バンド・スタンドと同じダンス番組のバディ・ディーン・ショーThe Buddy Deane Show の土地なんですね。あの番組ヘアスプレーのモデルになった番組です、バディ・ディーン・ショー。あの映画は2本ありますけど、最初のジョン・ウォーターズJohn Waters版の設定は、1963年で、当時の音楽やダンスを忠実に再現してますね、あれは。資料性が実に高い映画です。このミッドナイターズのツイスト・ブームは、あの映画の4年前ということになります。とにかくボルティモアでのツイストは大人気で、DJもB面をかけ始めたんですね。1ヵ月後のR&Bチャートに登場しまして、16位にまで上がるヒットとなったのです。
夢の両面ヒットです、ハンク・バラードとしては。アニー・シリーズが大ヒットしていた5年前を思い出してカムバックの余韻に浸っていたのではないでしょうか。ただしヒットはR&Bチャートだけでした。しかも、ボルティモアという地方だけの盛り上がりで、このときはツイストに全米が注目するというとこまでは行かなかったんですね。がしかし、一部の熱狂で終わったとはいえ、第一次ツイスト・ブームは59年に起きていました。次にフィンガー・ティップですね、パチン、こういうやつ。このフィンガー・ティップの擬音を入れたダンス・ナンバーを作ったんですが、それが大ヒットしました。
この曲は60年5月にチャートイン、じわじわとチャートが上がってきました。そのときにディック・クラークから声がかかりました。
6月22日のアメリカン・バンドスタンドに出演して、フィンガー・フォーク・エンド・タイムを歌いました。8月にR&Bで2位、ポップでも7位まで上がりました。このヒットでようやくキングがツイストのよさに気がついて1年前のAB面をひっくり返して再発売したんです。再発売したところ、7月にチャートに登場、R&B6位、ポップでも26位になりました。今度は全国的に広まり始めたこのツイストですね。これをディック・クラークが黙ってみてるわけはありません。で、ハンク・バラードではなく地元のフィラデルフィアでこのツイストを歌うシンガーを探したんですね。そこで白羽の矢が立ったのがディック・クラークに気に入られて59年にデビューしていたこの人でした。
The Class / Chubby Checker
この冒頭で、アンザミュージックティーチャーディックI’m the music teacher, digといってましたが、このディック(ディッグ?)というのはディック・クラークのことなんですね。これはB面なんですがチャビー・チェッカーの初ヒットでした。途中のファッツ・ドミノの物まねはうまかったですね。この人はとにかく物まねが得意で、フェビアンFabianとクラスメートだったそうです。ですからチップマンクスChipmunksのところでフェビアンていうのをやってましたけどね。要するにチャビー・チェッカーは、物まねのうまいクラスの人気者だったわけですね。それをディック・クラークが、このような曲を歌わせてデビューさせた。ものまねがうまいからハンク・バラードのツイストもうまく真似できるだろうという風に思ったんでしょうね。
The Twist / Chubby Checker
これはカバー・バージョンというよりは物まねバージョンですね。さすがにチャビーは、物まねがうまいです。声質が似てるという説もありますけども、やっぱり物まねがうまいんですね。特に歌いだしはそっくりですね。どっちかわかんないですよね。チャビー盤がラジオでかかった時にハンク・バラードは自分のがかかったと思って、途中まで聴いてたんですけど、自分ではないと気付いてほんとにびっくりしたそうです。チャビー盤のザ・ツイストは8月にチャートに登場しました。その後ダンス番組のクレイ・コール・ショウ Clay Cole Showというのがあって、このクレー・コールって言う人はスマイリー小原のように歌って踊る司会者ですね。
この番組に出たところ効果覿面で、本家を悠々と抜いてナンバー・ワンとなりました。その後、ディック・クラークのアメリカン・バンド・スタンドに出まして、このツイストの歌手であることを確定付けたんですね。
物まねの方が本家をしのいで、ツイストの本家となったわけです。ザツイストを奪われたハンクバラードですけども、この人はめげずにダンスナンバーの新曲、レッツゴー、レッツゴー、レッツゴーをリリースしました。
Let’s Go Let’s Go / Hank Ballard & The Midnighters
これはフィンガー・ポッピング・タイム以上のヒットを見せてR&Bで1位、これはハンクバラードの初の首位の獲得となりました。
ポップでも6位の大ヒットで、そこで調子に乗って、レッツゴー、レッツゴー、レッツゴーがヒットしたので、レッツゴーよ再びとばかりにレッツ・ゴー・アゲインという曲を作りました。
Let’s Go Again/ Hank Ballard & The Midnighters
これはR&B17位、ポップ39位とまずまずのヒットでしたが、この中にレッツ・ロック・アゲインとありました。この曲の内容と構造によく似た曲がこの後に登場しました。
Let’s Twist Again / Chubby Checker
なんとこの曲アイデアまで、ハンク・バラードからいただいたというものでしたけれども、曲は非常によくできてます。チャビー初のオリジナル・ツイストといっていいんじゃないでしょうか。まねも超えればオリジナルっていうのは、黒澤明監督の名言ですけれども、まさにこのレッツ・ツイスト・アゲインは、それだったと思います。この後ツイストブームは翌61年末に再燃するんですね。そしてこのチャビー盤のツイストが再びチャート1位に輝きまして、同じ曲の連続首位獲得というアメリカン・ポップス史上における不滅の大記録となってしまったのでした。
本日はキングレコード物語をお送りいたしました。クライド・マックファター、ジャッキー・ウイルソン、プラターズ、そしてキャンサス・シティーやオンリーユー、ザツイスト、目の前にありながら取り逃がしてしまったキング・レコードでありましたが、ロックンロールの歴史を作った重要なレコード会社でありましたので取り上げてみました。それではまた明晩。