大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート3 第3夜
2013年3月28日放送
(放送内容)
昨日のニューヨークから舞台をフィラデルフィアに移します。
ロック誕生の地メンフィスからエルビスの録音スタジオ移動ともに、ナッシュビル、ニューヨーク、ロサンゼルスとそこでの音楽活動が活発になってきた過程をいままでお話してきてまいりましたが、そこに新たに1958年前後からフィラデルフィアが活発になってきます。
そこで本日のタイトルはフィラデルフィア物語。まずは
この曲から。
Hound Dog / Freddie Bell & The Bellboys
1956年にエルビスがラスベガスで公演を行った際にフレディベル&プレイボーイズ を見て、このカバーを思い立ったという話は以前にいたしました。彼らのデビューは、ティーンレコードというフィラデルフィアにあった小さな会社でした。
その会社を運営しつつ、現場を取り仕切っていたのがバーニー・ローです。このハウンドドッグでピアノを弾いていたのも、そのバーニー・ローBernie Loweです。
そのバーニー・ローがベルボーイズのプロデューサーなんですけれども、それをエルビスのスタッフが知っていたかどうかは分かりませんが彼にエルビスようの新曲を依頼したんですね。そして出来上がったのが、ハウンドドッグ同様の動物シリーズでした。
Teddy Bear / Elvis Presley
これを作ったのがそのバーニー・ローですね。そして、その相棒のカル・マーンKal Mann、この二人がフィラデルフィアで作ったレコード会社がカメオ・レコードです。カメオでは最初の4枚は売れませんでしたが、5枚目の曲が大ヒットです。
Butterfly / Charlie Gracie
ガイミッチェルのシンギングザブルースのサウンドですね、ミッチミラーがプロデュースしたところの。
それがよりセクシーにした路線ですけれど、カバーをしたアンディーウイリアムス版とともにナンバーワンになるという超ビッグヒットとなりました。
このチャーリーグレーシーはこれまたフィラデルフィア生まれで52年から活動してましたが全く売れずに57年に新しくできたカメオレコードと契約して、最初のレコードがこのバタフライだったんですね。この大ヒットでカメオレコードは、順調なスタートを切りまして、チャーリーグレーシー、更には、作者権オーナーのバーニーロー、カルマンという人物にスポットが当たったんですけども、さらにフィラデルフィアと言う土地に全米音楽界が注目し始めたときでもありました。このカメオレコードの大成功からフィラデルフィアサウンドが始まりました。カメオ・レコードの中心人物は、先ほどのテディー・ベアを作りましたバーニーローとカルマンの二人ですけども、そのコンビニ3人目が加わります。
Mexican Hat Rock / Dave Appell & The Applejacks
これの作者デイブ・アペルDave Appellもフィラデルフィア生まれで、作曲はもちろんのこと演奏、アレンジ、エンジニア、プロデューサーと何でもできる人だったんですね。
先ほどのチャーリー・グレーシーCharlie Gracieのバタフライがありましたが、これのギターを弾きながらコーラスをしていたのがこのデイブ・アペルでした。
カメオサウンドの大部分は彼が作ったと言ってもいいですね。このメキシカン・ハット・ロックは、彼らの4枚目のシングルで初ヒット、16位まで上がりました。カメオの次の大ヒットは17枚目のシングルでした。
Silhouettes / The Rays
これがなんとポップチャートの3位になったんですね。大ヒットとなりました。でもこれはカメオの原盤ではなくて、ニューヨークのマイナーレーベル、XYZというレーベルから出ていたものをカメオが原盤権を買って発売したというものです。
で、このXYZという会社を運営していたのがフランク・スレイFrank Slayとボブ・クリューBob Creweです。歌っていたレイズは55年のデビューでしたが、そのデビュー曲もこの二人の作品でした。
Tippity Top / The Rays
なかなかヒットが出なかったレイズは、57年に再びこのフランク・スレイとボブ・クリューにプロデュースを頼んだところ、このシルエッツが大ヒットしたということです。XYZは小さな会社ですので、フィラデルフィアでプロモーションをしたんですね。それがカメオ・レコードの先ほどの社長バーニー・ローの目に止まり、全米第3位となる大ヒット曲となったわけです。こうなりますとカメオ・レコードはフランク・スレイとボブ・クリューのコンビに次の仕事を依頼するということになるわけですね。で、XYZレーベルのオーディションで選ばれたのは、男性と女性の二人のシンガーでした。そのデモを聞いたカメオの社長は女性の方だけをシングル・カットしました。その女性とは、リリー・ブライアン。
Good Good Morning, Baby / Little Bryant
ところが、これは全くヒットしなかったんですね。そのデモの中にあったリリーと・ビリーフォードとのデュエットソングがあったんですが、それをカメオの社長は気に入らなくて、その原盤は採用しなかったんです。それを聞きつけたのが当時フィラデルフィアにできたばかりの会社スワンレコードでした。
この男女デュオはビリー・アンド・リリーと名づけられました。
La Dee Dah / Billy & Lillie
このラディダーは、なんとポップチャートの9位にランクされて、スワン・レコードの最初のトップテンヒットとなりました。カメオ・レコードのバーニー・ローは、大魚を逃したわけですね。早速スワン・レコードはフランク・スレイとボブ・クリューに次の依頼をします。ビリー・アンド・リリーの次のシングルはラッキー・レディーバグ。
Lucky Ladybug/ Billy & Lillie
これも14位とトップ20に入りました。この後、フランク・スレイとボブ・クリューは、スワン・レコードの中心的なプロデューサーとなって行って、カメオはヒットを逃したばかりではなく、大事なスタッフを失ってしまったわけです。ところでこの、ラ・ディー・ダーとラッキー・レディ・バグの大ヒットですが、実はそのスワン・レコードというのは、DJのディック・クラークが経営に参加していたんですね。それまでフィラデルフィアのローカル番組であったバンド・スタンドという番組が、57年8月に全国放送となりまして、番組名もアメリカン・バンド・スタンドという風に変わって、徐々に全米の人気番組になって行きました。
At The Hop/Danny & The Juniors
アメリカン・バンド・スタンドといえばこのダニー・アンド・ザ・ジュニアーズのアット・ザ・ホップと言われるほどの大ヒットでしたけれども、この番組の発信地であるフィラデルフィアも新たなポップスのメッカとなったわけです。このアット・ザ・ホップは全国放送開始から4ヵ月後にチャートに登場しまして、ナンバー・ワンを獲得しました。発売したレコード会社はこの番組を全国ネットしているABCテレビのABCパラマウントというレコード会社でした。
このアットザホップには、タイトルになる前に原曲があったんですね。タイトルは、ドゥー・ザ・ボップ
Do The Bop / The Juniors
ジェリー・リー・ルイスのホール・ロッタ・シェイキング・ゴーイング・オンWhole Lotta Shakin’ Goin’ Onをモデルにして作られた曲ですけれども、バック・コーラスがダニー・エンド・ザ・ジュニアーズでリード・シンガーはジョニー・マダラJOHNNY MADARAです。
このジョニー・マダラとダニー・アンド・ザ・ジュニアーズのメンバーだったデイブ・ホワイト David Whiteがマダラー・アンド・ホワイトという作家コンビを作ります。後にレズリー・ゴーアLesley Goreの恋と涙の17歳You Don’t Own Meとかレンバリーのワントゥースリー、これらは彼らのペンによるものでした。この原点がドゥーザボップだったんですね。
全員がフィラデルフィアの若者です。ドゥー・ザ・ボップをアット・ザ・ホップという風にタイトルを変えたのはディック・クラークでした。とにかくアメリカン・バンド・スタンドというテレビ番組は曲に合わせてスタジオ内の観客がダンスをしているという姿を映すという公開放送なんですね。途中で歌手のコーナーがあっても全部口パクなんです。
とにかく踊りが重要なんですね、このアメリカン・バンド・スタンド。アット・ザ・ホップの歌詞の中には、ドゥー・ザ・ストンプ・アンド・イーブンス・ストロール・アット・ザ・ホップという風にありますけれど、この歌詞の中に出てきたストロール、このアットザホップの3週間後に、なんとストロールStrollという曲がチャートに登場します。
The Stroll / The Diamonds
サックスはキングカーティスKing Curtisです。
歌っていたのはダイヤモンズ。これは彼らにしては珍しくオリジナルなんですね。ザ・ストロール、最高位は4位でしたが、R&Bチャートでも5位にランクされました。これ、アメリカン・グラフィティーの2の方で、全員が列を作って踊ってましたよね。
ダンスはとにかく流行ったんですね、このストロール。さらにこの曲はチャート以上の影響力があって、これに似た曲がたくさん作られました。デュアン・エディーの大ヒット曲レベル・ラウザーのB面もそれでした。
Stalkin’ /Duane Eddy
いやあいいですね。最初はこちらをA面にしたいとデュアン・エディーは希望したそうですけれども、スタッフに地味すぎると反対されてレベル・ラウザーをA面にしたそうです。これよりもさらにストロールに影響された曲がありました。
Rumble/ Link Wray
これはケイデンス・レコードから発売されましたが、タイトルは、このランブルというタイトルはフィル・エヴァリーPhillip Everlyが付けたそうです。
ザ・ストロールから影響されて作ったとリンク・レイ本人が発言しています。ポップ・チャートでは14位でしたが、R&Bでは11位です。このリンク・レイというギタリストが与えた影響についてはまた別の機会にお話しすることになると思います。このギタースタイルを聴いて誰が影響受けているかが分かる人は相当なエレキ・ギター少年だと思いますけどね。この後もアメリカン・バンド・スタンドからさらに有名なダンスヒットが続々出てくるんですけど、これまた次の機会に語ることにいたします。
Be My Love/Mario Lanza
フィラデルフィア出身の有名な歌手といいますと、アメリカン・ポップス伝の初回、ナンバー・ワン・ヒットの2曲目に登場しておりました。
Here In My Heart / Al Martino
51年のヒット曲でビリーブ・マイ・ラブでマリオ・ランサですが、彼もフィラデルフィア出身でした。そして彼と家族ぐるみの付き合いがあった、アル・マティーノも翌52年歌手デビューして1位を獲得しました。
I Love My Girl/ Cozy Morley
アル・マティーノは例のゴッド・ファーザーでシナトラの役で出て歌ってましたよね。
実際彼はフィラデルフィアのイタリア系ミュージシャンのゴッドファーザー的な存在でもありました。フィラデルフィアにはイタリア系の作家のチームもいたんですね。ボブ・マルクーチー Bob Marcucciとピーター・デ・アンジェリスPeter De Angelisのコンビなんですけども彼らも53年ごろから活動を始めていて、57年に自分たちのレコードを作りました。
そのレコード会社がチャンセラーChancellor Recordsというレーベル名だったんですけど、最初に出たレコードはアイ・ラブ・マイガール
歌っていたのはローカル・シンガーのコージー・モーリーという人ですね。
作曲はボブ・マルクーチーとピーター・デ・アンジェリスです。これはなんと幸先良くABCパラマウントの目にとまりまして、原盤が買われてABCレーベルから発売されました。62位にチャートされましたから、チャンセラー・レコードとしては順調なスタートを切ったわけです。そして3枚目のシングルもこれまた地元の女性シンガー、ジョーディーサン。
With All My Heart/ Jodie Sands
いい曲ですね。このようなうきうきする陽気なイタリアン・ポップ・サウンド、私はドン・コスタDon Costaが第一人者だと思っていたんですが、実はこの作曲者であるところのピーター・デ・アンジェリスも負けていませんね。
ポップな感覚ではドンコスタ以上ではないかという感じがします。ドンコスタが明るいイタリア調のポップ・サウンドがABCパラマウントの特徴だったんですけど、そのきっかけはひょっとするとこのピーター・デ・アンジェリスが作ったんじゃないか、という風に感じます。このピーター・デ・アンジェリスのサウンドを、ドン・コスタは早速ABCパラマウントに取り入れまして、イーディー・ゴーメが歌いました。
Love Me Forever / Eydie Gorme
それまで彼女は40位とか60位と、チャートは低迷していました。これは24位まで上昇しました。ドン・コスタも以前からこのようなイタリアンポップ調のアレンジはしていたですけれども、ピーター・デ・アンジェリスのサウンドは相当な刺激になったんではないかと思います。さて、これで軌道に乗ったチャンセラー・レコードのプロデューサー、ボブ・マルクーチは、ポール・アンカや、さらにその前にデビューしていたリッキー・ネルソンをテレビで見て、これからはイケメンの男の子だと思ったわけですね。
そこでフィラデルフィア中の若い男の子を物色して歩いたということですが、その時にフランキー・アヴァロンと出会ったんです。アヴァロンは、このとき既にレコードデビューしてたんですね。しかも、トランペッターとしてでした
Trumpet Sorrento / Frankie Avalon
55年にこのレコードでデビューしてたんですが、レコード面には、トランペットのソロは11歳のフランキー・アヴァロンという風に書かれています。こっから3年後の1957年、ボブ・マルクーチはアヴァロンに、歌手にならないかと持ちかけました。しかし、アヴァロンの返事はノーです。僕はトランペッターで歌は自信が無いという返事だったんですね。でも、マルクーチは何とか説き伏せて、レコーディングに持ち込みました。アレンジとセッションのリーダーはアル・カイオラでした。
バック面は一流どころを揃えたわけです。しかし、これがですね、アメリカンポップス史上、開闢以来の歌唱力でした。まあ聴いてみてください。
The One I Love/ Frankie Avalon
ちょっと勘弁ですね。確かに自信がないと断るだけのことはありますよね。それにしてもすごいですよね、これはね。
まあ、この辺にして置きましょう。さすがのスタッフもこれでは、頭を抱え込んだと思いきやですね、天下のボブ・マルクーチ、こんなことでは、へこたれないんですね。とにかくこれからはテレビだと、見た目だと、グッド・ルッキンッガイだと。歌なんて同でもいい。イケメンなら絶対に売れるという確信を持っていたんですね。そこでバラードだと下手がばれんので、今はロックンロール時代だから、ロック路線で行こうということになりました。
Short Fat Funny / Frankie Avalon
ロックンロールでも十分に下手ですけれども、とにかくロック路線でデビューさせたんですけど、ヒットしなかったんですね。そこでマルクーチは単純なロックンロール路線ではなく、2枚目半というか、コミカル路線にルートを変更しました。下手を逆手に取った戦略なんですけれども、なんとこれが功を奏してヒットしたんですね。で、アヴァロンは鼻をつまんだような声を出しています。
De De Dinah / Frankie Avalon
ダイアナにあやかったんでしょうか、女の子の名前シリーズ、ディー・ディー・ダイナはなんと、7位とヒットしました。驚く無かれ、R&Bでも8位だったんですね、これ。これがお子ちゃまロックの第1号といっていいでしょう。次の曲も同じく2枚目半路線のジンジャー・ブレッド、生姜風味のお菓子。
Gingerbread / Frankie Avaion
まさにこれは子供用の歌ですよね。女の子に例えたんでしょうけど、ジンジャー・ブレッドというのは。繰り返しは耳に残ります。これは、ポップで9位、R&Bで10位と、ビックヒットとなりまして、ここでリッキー・ネルソン、ポール・アンカに続いて、フランキー・アヴァロンはティーンネイジ・アイドルの仲間入りを果たしました。これが日本で言うならば初代アイドルの御三家ですね。ネルソン、アンカ、アヴァロンというのは。3人とも57年デビュー組でした。さて、自分の後継者が現われたフランキー・アヴァロンは、先輩の余裕からでしょうか、歌うことに欲が出てきたんですね。ちょうどそのころ作曲家のエド・マーシャルEd Marshallからアル・マティーノ用に書いた曲を聴かされます。
しかし、アヴァロンはその曲を聞いた途端に、「それ頂戴よ、僕が歌うよ。」となって発表されたのがこの曲でした。
Venus /Frankie Avalon
これ、本来ならアル・マティーノが歌っていたかも知れないんですね。これがなんとナンバー・ワンになったんです。アヴァロンとしてももちろん、チャンセラー・レコードとしても初のナンバーワンでした。これは歌よりもアレンジの力が大きいと思いますねえ。何度もでてきますがピーター・デ・アンジェリス、彼のアレンジ無しではこのような大ヒット曲にはなっていないと思います。こうなりますと、もしこの歌をアル・マルティーノが歌っていたらどんな風になっていたかって、知りたくなりますよね。イギリスの歌手にディッキー・バレンタインDickie Valentineという歌手がいます。彼がこのビーナスという歌を歌っていますので、それを聴いてみましょう。
Venus / Dickie Valentine
イギリス人ですからハーというのがよかったですけど、アル・マティーノが歌っていたら、こんな感じになっていたんじゃないでしょうか。それを若くて決してうまくないアヴァロンが歌うことによって、ポップのティーン歌謡というジャンルができていって、それが60年代ポップスの始まりだったということもできますね。このビーナスのサウンド、ピーター・デ・アンジェリスのサウンドをまたまたドン・コスタはABCパラマウントのサウンドとして仕立て上げたのでした。
Pretty Blue Eyes/Steve Lawrence
スティーブ・ローレンスがABCパラマウントに移籍後初のヒットでトップ・テンに入るヒットとなりました。これもアレンジの原点がピーター・デ・アンジェリスのサウンドだったんですね。このサウンドは、次はアルドン出版社のトレードマークとなるんですね、その次は。
それは60年代ポップスのコーナーで取り上げることにいたします。さて、チャンセラー・レコードはこの辺にいたしまして、シルエッツ、ラーディーダー、ラッキー・レディー・バグというヒットを出していたフランク・スレーとボブ・クリューのその後はどうなったのかといいますと、スワン・レコードの依頼で新人探しをしていたんですね。ボストンのDJが送ってきたレコードの中に、ボストンのグループでスピンドリフツというグループがあったんですが、これがスレーとクリューの目に止まりました。
Cha Cha Doo /The Spindrifts
フランク・スレーとボブ・クリューが気に入りそうな音ですけれども。このレコードはABCパラマウントが原盤を買い取って発売されたんですけども、なんとグループがすぐに解散してしまって、この曲のリードシンガーが新しいバンドを作りました。グループ名はフレディー・カーモンとハリケーンズFreddy Karmon & the Hurricanesというグループだったんですが、曲のタイトルはロックンロール・ベイビーというものでした。それを聴いたフランク・スレーとボブ・クリューは、タイトルを変えるように進言して、二人はボストンに出かけて録音を行いました。
Tallahassee Lassie / Freddy Cannon
これ、6位の大ヒットでした。なんといっても印象的なのは途中のバスドラムのサウンドでしたね。ローリング・ストーンズのブラウン・シュガーは、これからヒントを得て作ったという話は有名ですけども、このバスドラムは後でダビングしたもんなんですね。
しかも、足で踏んでんのではなく、マレットで叩いてるんです。
それから、ウーというリトル・リチャード風の掛け声とアウーて言うコーラス、さらに手拍子、これは全部後で入れたもんなんです。つまり、印象的なものはすべて後処理によるもんだったんですね。
Tallahassee Lassie (re-recording) /Freddy Cannon
ですから元のオリジナルにはあれらが全部無かったわけで、どこも買わなかったんだそうですけれども、それをディック・クラークがバス・ドラムを入れてみたらどうかというアイデアを出したんだそうですね。それで、フランク・スレーとボブ・クリューがコーラスと手拍子を足して、あのようなボンピングサウンドが出来上がりました。ニューヨークでこの曲の再録音を行いました。
Way Down Yonder In New Orleans / Freddy Cannon
ステレオですけど手品がばればれですね。やはりロックンロールはモノに限りますね。これは第3弾ヒットの後で録音されたものですが、その第3弾ヒットとはフレディー・キャノンの新しいスタイルとなったところのビッグ・バンド・ロックンロールでした。アル・ジョルソンが歌っているのを見たスタッフが、これカバーしたらどうかっていう風に進言したそうですが、なんとこれが第3位でした。
この後もフランク・スレーとボブ・クリューはフレディーキャノンの曲をプロデュースし続けました。さてこのフィラデルフィア物語の最初に登場したのはカメオ・レコードでしたが、最初のチャーリー・グレーシーのバタフライがナンバー・ワンと、ところがその後のカメオ・レコードからは大ヒットが全くでなかったんですね。しかも、同じ地元のスワンやチャンセラーからは次々にヒットが出てきます。先頭を走っていたはずのカメオ・レコードはもう後塵を拝してたわけですね。しかし、ここへ来てようやくカメオ・レコードからもティーン・アイドルが生まれました。それがボビー・ライデル。
Kissin’ Time / Bobby Rydell
途中でバスドラムはいってましたけどね。チャック・ベリーのスイート・リトル・シックスティーンを思わせますけど、これはB面だったんですけど、11位にランクされてボビーライデル初のヒットとなりました。
一曲ヒットが出ますと歌唱力は段違いにうまいわけですから、次々とヒットを連発します。
Wild One / Bobby Rydell
これは2位だったんですけどね、サウンドはフレディー・キャノンもろのいただきですよね。フィラデルフィア戦争に突入したわけです。同時期に出た本家の方のチャージャニスージャンボーイは、34位止まりとボビー・ライデルの勝利に終わりました。次のシングルもフレディー・キャノン路線を突っ走ります。
Swingin’ School / Bobby Rydell
このスィンギング・スクールは5位と大ヒットで、同時のフレディー・キャノン、ジャンプ・オーバーJump Overを出したんですけど28位でね、完全に持っていかれましたね。
フレディー・キャノンはこれから低迷期が続きますが、ボビー・ライデルは更なる変化を遂げます。58年にイタリアの歌手ドメニコ・モドーニョDomenico Modugnoが歌ったヴォラーレVolare、あれが全米第1位になりましたけども、同じイタリア系のディーン・マーチンのバージョンも12位とヒットしましたが、それをボビー・ライデルが2年後にカバーして堂々の4位にランクされました。
Volare / Bobby Rydell
フィラデルフィア出身、イタリア系歌手、マリオ・ランツァ、アル・マルティーノで始まりました今晩のフィラデルフィア物語同じくイタリア系のフランキー・アヴァロン、最後もイタリア系のボビー・ライデル、ヴォラーレで本日はおしまいでございます。57年から始まりました新しいポップスの聖地フィラデルフィアサウンドの第1部はこのあたりで終わりまして、60年に入りますとまた新たな戦いが待っているのですが、これは明日ちらりと触れることになると思いますのでお楽しみに。