大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート3 第1夜
2013年3月26日放送
(放送内容)
前回はエルビスがハートブレークホテルで登場した1956年から徴兵された1958年、そして1959年あたりまで。
ロックンロールの誕生から衰退、そして変貌を5回に詰め込んでお送りいたしました。で、今回はブームのその後について、詳しくお話をしていきたいと思っております。まずは記念すべきハートブレークホテルが録音された土地、ナッシュビルのその後から。
Long Tall Sally/ Marty Robbins
まずはエルビスの登場を目の前で見て、ザッツオールライトを自分のレパートリーに取り入れたカントリー界のマーティー・ロビンス、次にチャックベリーのメイベリン、更にはリトルリチャードの、こののっぽのサリーにも挑戦しました。
いまかかってんのがそれですね。ちょうど同じ時期にパットブーンも、こののっぽのサリーを歌っていました。このころはカールパーキンスのブルースエードシューズとかエルビスのハートブレークホテルが1位になっていた時でした。さて、マーティーロビンスには、このころヒットしなかったB面にこのような曲がありました。
Singing The Blues/ Marty Robbins
マーティー・ロビンスがグランドロオープリーに出ていた時に、楽屋に新人作家が売り込みに来たということですね。
その時にこの曲をやろうと決めて録音したそうですけど、プロデューサーのドン・ローDon LawはB面にしていたんですね。
どちらもヒットしなかったわけですけれども、このB面に注目したプロデューサがおりました。マーティーの会社CBSのヘッド、ミッチミラーです。
ミッチミラーは1950年にコロンビアに入社しまして、トニーベネット、ローズマリークルーニー、ジョースタッフォード、フランキーレーンなどのヒット曲はほとんど彼が担当しました。
特に顕著だったのが当時カントリーのナンバーワン、ハンクウイリアムスの曲をカバーしたと言うことですね。
ユア・チーティング・ハートYour cheatin’ heart、ヘイグッドルッキング HEY GOOD LOOKIN’とかジャンバラヤJambalayaなどをポップスにアレンジして歌手に歌わせていました。
中でもトニーベネットのコールド・コールド・ハート。
Cold Cold Heart / Tony Bennett
それからローズマリー・クルーニーのハーフ・アズ・マッチ
Half As Much / Rosemary Clooney
この2曲はそれぞれ51年、52年のナンバーワンソングでしたけども、いずれもミッチミラーの手腕によるものでした。アレンジはパーシーフェイスです。
50年代初期のミッチミラーの陰には、パーシーフェイスがいたんですね。このようにミッチミラーは常にカントリー業界にも注目していたので、同じ会社のマーティーロビンスのB面というのも見つけることができたんですね。で、その曲を同じ会社のガイミッチェルに歌わせました。
名付け親はミッチミラーなんですね。自分の本名を彼の芸名に与えたんですね。カントリー・アンド・ウエスタンのマーティーロビンスが歌いましたスィンギングザブルースをミッチミラーは、このようなポップソングへと変貌させました。
Singing The Blues / Guy Mitchell
このレコードは見事に1位に輝きました。最大のポイントは途中のこの部分だと思います。同じ部分なんですけど、マーティー・ロビンスはファルセットで、ハンク・ウイリアムス調に歌っているわけですね。それをガイ・ミッチェルは「ハーイハーイハーイオーバーユー」と言う風に普通に歌っています。これがミッチの手法ですね。ハンクウイリアムスのようにファルセットで歌おうと思ってもふつうの人はうまく歌えないわけで、それを簡単に歌えるようにと言うわけで、ミッチミラーはあのようにアレンジしたということですね。これがだからポップソングというところの肝なんだと思うんですね。この曲のアレンジはレイコニフです。さて、このガイミッチェルのスィンギング・ザ・ブルースのちょっと前にミッチミラーとレイコニフがビッグヒットをチャートの送り込んでおりました。
Just Walking In The Rain / Johnnie Ray
ガイ・ミッチェルのスィンギング・ザ・ブルースと全く同じアレンジでした。この2曲はビルボード誌とキャッシュ・ボックス誌でおのおのが1位を獲得しました。これの前のチャートの1位はエルビスのラブ・ミー・テンダーでしたがね、実はエルビスのマネージャー、トム・パーカーはRCAやアトランティックだけでなく、このコロンビアにも話を持ちかけていたんですね。
しかしミッチミラーは「私はこのような音楽は嫌いである。で、わが社には必要ない」という風に断ったということです。
Singing The Blues (re-recording) /Marty Robbins
ガイミッチェルのスィンギング・ザ・ブルースがナンバーワンになったので、コロンビアはオリジナルのこのマーティーロビンスの盤を再びリリースしたところ、なんとそれまでカントリー・チャートにしか入ったことの無かったんですね、マーティー・ロビンスは。それがポップスの17位に入りましてね。マーティー・ロビンス初のナショナルチャート入りと言うことになりました。この時点でマーティーロビンスはそれまで彼を支えていたプロデューサのドン・ローと別れて、ニューヨークへ行くんですね。で、ミッチのプロデュース、レイコニフのアレンジ、ニューヨークのコロンビア・スタジオで自作の曲を録音しました。
A White Sport Coat (And A Pink Carnation) / Marty Robbins
これは大ヒットでした。第2位にランクされましたね。ギターはアル・カイオラでした。
ナッシュビル・サウンドとニューヨーク・サウンドとの合体がポップカントリーと言われるジャンルの先駆けとなったんですね。ボビー・ビントンなども、この流れにあることも分かると思います。
このホワイト・スポーツ・コートですけども、この曲がヒットチャートの上位にいたころ、1位にランクされていたのは、アイム・オール・シュックアップでした。
All Shook Up / Elvis Presley
これは9週間も1位でした、アイム・オール・シュクアップは。で、この次に1位になったのが、
Love Letters in The Sand / Pat Boone
で、このパッとブーンの「砂に書いたラブレター」も7週連続1位と言う、このオール・シュク・アップと甲乙付けがたい特大ヒットだったんですね。
で、いわゆるエルビス派対パットブーンと言う対立図式が登場したのがこの時期でした。この砂に書いたラブレターが1位の時に2位だったのがマーティー・ロビンスのホワイト・スポーツコートでした。たった1年前にはパット・ブーンもマーティ・ロビンスものっぽのサリーを歌っていたんですけれども、1年経ったらエルビスに対抗するポップ・ソング側のシンガーと言うことになってしまったわけですね。このように、こんな現象も頻繁に起きると言うのも、このポップス界のダイナミックなところであるという風にも思います。
さてニューヨークにやってきて全米に知られるシンガーとなったマーティー・ロビンスですけれども、彼に与えられた新曲は次世代のアメリカン・ポップスを担うことになる最初のヒットになったものでした。コンビ名はハル・デイビッドとバートバカラック。
The Storγ Of My Life / Marty Robbins
副調から声がでておりましたけれども、曲の出だしの声はミッチミラーですね。スタジオ内にいるレイコニフに指示を出していますね。「オーケー、レイ」とか言ってますから。これはポップチャートでは15位でしたけれども、カントリーチャートではナンバーワンになりました。
後にバカラックはカントリー調の曲を作りようになりますけれども、あれはイメージチェンジではなくて、原点回帰であったわけですね。このストーリーオブマイライフがハル・デイビッドとバートバカラックの最初のヒットとなった曲でありました。
ミッチミラーはマーティーロビンスに次々に新人作家の曲を与えます。この後に登場した作家は、バリー・ディボーゾンBarry De Vorzon、タイトルはジャスト・マリードJust Married。
Just Married / Marty Robbins
これもポップでは26位でしたが、カントリーチャートでは1位でした。バリーディボーゾンという人は、ミッチミラーに直接この曲を贈ったんだそうですね。マーティーロビンスの第2段と言う風に思って書いたんですけど、そのマーティーロビンスが歌ってくれたんで、本当にラッキーだったと言う風に本人が語っています。このバリーディボーゾンがこれで、作家のスタートを切って、その後ジョニー・バーネットに。
Dreamin’ / Johnny Burnette
このドリーミンを書いたわけですね。そして次は自分で作ったレーベルでプロデュースしたのがこの曲でした。
Rhythm Of The Rain 「悲しき雨音」/ The Cascades
このカスケーズの後に同じレーベルから登場してきたのがアソシエーションです。
次の曲ですけど、バリー・ディ・ボーゾンという名前を知らなくても聴いたことがあると思います。
Theme From S.W.A.T「S W A T反逆のテーマ」 / Rhythm Heritage
これもバリー・ディ・ボーゾンの作曲でした。さて57年9月マーティーロビンスはロビンス・レコードという会社を始めるんですね。やはり、ただのシンガーだけではと思ったんでしょうか、原盤出版の事業を始めます。しかし、8枚くらいシングルを発売して10ヶ月で止めてしまったんですけども、その中にアクセンツというグループがありました。
Lovin’ At Night/David Gates & The Accents
この歌っていた人がヒットチャートに登場したのはこの曲から13年後の1970年後のことでありました。
Make it With You「二人の架け橋」 /Bread
ブレッドのリーダーのデビッド・ゲイツDavid Gatesもロックンロール時代の時にデビューしていたんですね。
それでも初ヒットを出すまでは13年かかったということになります。さて、ミッチミラー本人についても少し紹介しておきましょう。テレビ番組「ミッチと歌おう」は、NHKテレビで1963年から放送されていて、私も中三から高校時代でしたけれども、毎週見ておりました。
ニコニコしたひげのおじさんが、腕を振ってですねコンダクトするという、原題がシング・アロング・ウイズ・ミッチ。
このミッチミラー合唱団のデビューはエルビス登場の直前の55年の秋でした。デビュー曲は6週間も1位を続けた大ヒットでした。
The Yellow Rose Of Texas「テキサスの黄色いバラ」 / Mitch Miller
邦題は「草原のマーチ」というものでしたけども、ミッチミラー合唱団の大ヒットでした。自分でもヒットを出してたからエルビスはもういらなかったんでしょうね。58年にはクワイ河マーチのヒットを飛ばします。
The River Kwai March「クワイ河マーチ」/ Mitch Miller
小学校でしたか、中学校でしたか、運動会っていうと必ずこの曲が行進曲で使われていた記憶がありますね。ナッシュビルの事情に話を戻しましょう。もう一人ブレンダ・リーがおりましたが、57年にようやく3枚目のシングルがチャートに登場しました。
One Step At A Time / Brenda Lee
カントリーチャートで15位でしたけれど、ポップでは43位と振るいませんでしたね。この年、ブレンダ・リーにはもう一曲チャートインした曲がありました。
Dynamite「ダイナマイト」/ Brenda lee
日本ではダイナマイト娘と言う異名がつけられましたけれども、このダイナマイトも72位に終わってるんですね。ですからブレンダ・リーが一般的に知られるようになったのは1960年に入ってからのことなんですね。さてロックンロール時代の2年目の1957年、マーティーロビンスはナッシュビルからニューヨークに行きました。その翌年の58年10月、それまでニューメキシコ州のクロビスというところをホームグラウンドにしていたと言うますとバディーホリーですね。バディーホリーは結婚と言うこともあって、ニューヨークへ活動拠点を移します。
で、以前のバンドサウンドからニューヨークに行きますと華麗なストリングスをバックに、メロディーラインを強調したサウンドに変化していきました。
True Love Way / Buddy Holly
このセッションではポールアンカの曲も歌ったり、エヴァリーのスタッフ・ライターのブードロー夫妻の曲も取り上げていました。実はこのブードロフサイの曲は、エヴァリーが気に入らなかったのでバディーホリーに回ってきた曲でした。
Raining In My Heart / Buddy Holly
ホリーにぴったりですね、この曲は。もうボビー・ビーの登場を予告していると言えます。
これから4ヵ月後にバディーホリーはこの世を去ったわけですけれどもその後フォロワーがものすごく多かったというのはこのようなメロディー・タイプの曲があったからだと思います。ロックンロール・タイプのものだけだったらあれほどの影響力は持ち得なかったと思います。バディーホリーの関係についてはあらためて語ることにしたいと思います。さて、このバディーホリーのニューヨーク録音の1年後ですね、59年11月にエヴァリー・ブラザースもニューヨークにやってきました。会社社長のアーチー・ブライアーArchie Bleyer、アーチーブライアンの編曲によるストリングスをバックにジルベール・べコーの名曲をカバーしました。
Let It Be Me/The Everly Brothers
エヴァリーが所属していた会社のケーデンスレコードですけれども、これはニューヨークの会社で社長のアーチー・ブライアーはもともと楽団のリーダーだったんですね。ですから本来はこのようなサウンドのアレンジは得意だったと言うわけです。エヴァリーが所属していた出版社は、エイカフローズ Acuff-Rose といいましてナッシュビルでは一番大きく、ヒットを連発していた会社でした。
57年、そこに、新しく契約したドン・ギブソンがナッシュビルにやってきます。そこでRCAレコードと契約しました。で、チェット・アトキンスがプロデューサーとなって担当した第1号のアーティストがドン・ギブソンでした。
Blue Blue Day / Don Gibson
そういえばどこと無くバイ・バイ・ラブを感じさせるものがありましたね。
最初はカントリー調のものを歌っていたんですけども全くヒットしなかったんですね。チェット・アトキンスはそのころエヴァリー・ブラザースのセッションやってましたから、「なあ、ドンよ。もう今はエヴァリーの時代だ。古いカントリーはもうお呼びじゃない。あんな曲を作ってみたらどうか。」とアドヴァイスされて、ドン・ギブソンが作った曲がこの曲でした。で、これはヒットにはいたらなかったんですね。ただ、チェット・アトキンスとドン・ギブソンは、この路線に手ごたえを感じて続編を作ろうと言うことになりました。新曲のタイトルは、オー・ロンサム・ミー。
Oh Lonesome Me/Don Gibson
これはカントリーチャートで1位、ポップチャートでも7位にランクされるという大ヒットになったんですね。リード・ギターはチェット・アトキンスですけど、プロデューサーとしても初のヒット曲になったわけです。コーラスはおなじみのジョーダネアーズですけれども、ここでナッシュビルのレコーディング史上、初めての音が録音されてました。
ちょっとミックスが低かったので、分かりにくいと思いますけれども、トンストトン、トンストトンというシンコペーションのバスドラムが入っていたんですね。
R&Bでは何曲もそういう音はあるんですけどもカントリーの中で出てきたのは、これが初めてだったんですね。R&Bのバスドラム、どういうものがあるかといいますと、イントロでフィーチャーされたところの最初の大ヒット曲はこれだったんですね。
I’m Walkin’ / Fats Domino
これが元祖バスドライントラですね。ドラマはアルパーマーEarl Palmer。
で、オーロンサムミーのドラマーは、アールワンドビーワンドのドラマーからこのたてかたを教わったと言ってます。しかし、ドンギブソン本人はこのオー・ロンサム・ミーより別の曲をプッシュしたかったんです。ところがスタッフの反対にあってB面にされてしまいました。そのB面の曲とは。
I Can’t Stop Loving You / Don Gibson
これはポップでは81位と低かったんですけど、カントリーでは7位でした。ご承知のとおりこの曲は後でレイチャールズによって世界的な大ヒットになるんですけど、これから4年後のことでした。
I Can’t Stop Loving You/ Ray Charles
ドン・ギブソンも作った時には、これほどの世界的な大ヒットになると言う風には想像してなかったと思いますね。ほんとにヒットと言うのは面白いもので、単に曲がいいからというだけではヒットにならないんですね。ま、タイミングと言うこともあると思います。前に出していた全くヒットしなかったブルーブルーデイもこの後、チャート・インして、カントリーで1位、ポップでも20位になったんです。ひとつ大ヒットがあると、次々に大ヒットすると言うのはポップス界にはよくあることですけれども、最初のブレークポイント、たった一つのきっかけと言うのが大事なんですね。ここからドン・ギブソンはヒット・チャートの常連となって、次々にヒットを飛ばします。さて、ドン・ギブソンがヒットを飛ばした58年、メンフィスのサン・レコードからRCAレコードの移籍していたシンガーがおりました。出版社も同じエイカフローズ。プロデューサーも同じチェットアトキンス。やってきたのはロイ・オービソン。
Seems To Me/ Roy Orbison
コーラスはジョーダネイヤーズ。作曲はエヴァリーでおなじみのヒット・メーカー、ブードロー・ブライヤントBoudleaux Bryantでしたけれども、これはヒットしなかったんですね。
サン・レコードのメンフィスからナッシュビルに来たのは、エイカフローズという出版者と契約したからなんです。この曲がきっかけとなりました。
Claudette-Everly Brothers
エヴァリー・ブラザースのオール・アイ・ハブ・トゥ・ドリームのB面となりましたクローデッド。
これが30位とランクされるヒットとなったので、出版社からロイオービソンに声がかかったと言うことですね。このクローデッドはオービソンがサンレコード時代に作った曲でした。
Claudette / Roy Orbison
これが縁でナッシュビルにやってきてRCAレコードと契約して先ほどの曲が第1号となったわけです。それでもヒットしなかったので、第2弾はチャックベリータイプのロックンロール路線で行きました。
Almost 18 / Roy Orbison
自作の曲だったんですけれども、これもダメだったんですね。続いて3枚目は、元の自分のバンド、ティーン・キングスでギターを弾いていたメンバー、ピーナッツ・ウイルソンに書いた曲のセルフカバーでした。
Paper Boy / Peanuts Wilson
Paper Boy / Roy Orbison
新聞少年ですね。それで、これを3枚目のシングルにしようとしてレコーディングしたんですけど、まあ、他人向けにやった曲のカバーですから、曲がなくなったんですかね。この時にエイカフローズの社長がですね、突然、「これはRCAからではなく、モニュメントレコードからリリースする。」と、「ついてはこの曲を録音しなおす。」という風に行ってきたんですね。
で、ロイ・オービソンはモニュメントというのが何なんかが分からないままにスタジオに行きまして、行きますといつものナッシュビルのAティームのメンバーが揃っていて、再びこの新聞少年をレコーディングすることになりました。
Paper Boy (re-recording) / Roy Orbison
ミュージシャンが同じなのであまり違いが感じられないのですがね、モニュメントようのマスターがほしかったということかもしれないですね。これがロイ・オービソンのモニュメント・レコードの移籍第1弾という風になりました。このモニュメント・レコードは、58年3月にワシントンDCで作られた会社です。後にナッシュビルに移ってくるんですけども、作ったのはフレッド・フォスターといってですね、マイナーレーベルなんかを探して歩いて、レコードヒットを探して歩くというような営業をやっている人です。
ですからセールスに関しては経験は豊富にあった人ですね。モニュメントの第1弾というのは、ビリー・グラマーのガッタ・トラベル・オンでした。
Gotta Travel On /Billy Grammer
これは4位となる大ヒットで、最初に出したレコードから4位っていうのは、これはスタート・ダッシュとしては、すばらしいものだったんですね。さて、そのモニュメントから出し直したペーパー・ボーイですけども、新聞少年、これもヒットせずで、なかなかオービソンのヒットへの道は遠かったんですね。ちょうどこのころにオービソンはソングライターのジョー・メルソンJoe Melsonと知り合うんです。で、彼はオービソンの自宅の隣町に住んでたんですね。で、二人は意気投合して一緒に曲を作ろうということになりました。で、ジョー・メルスンが作っていた曲を聴いてオービソンが、「それはいいメロディーだね」とか、言いながら詩を書いて、さらにストリングスを入れたいということで、アレンジャーにアレタ・カーンを起用します。そしてミュージシャンはいつものナッシュビル・エイティーム、ジョー・メルスンとロイオービソンが初めて作った曲がこれです。
Uptown / Roy OrbIson
ようやく出来上がりましたねえ、ロイ・オービソ・ンサウンド。56年から4年半ぶりの60年1月にチャートインしました。しかし最高位は72位だったんですけれども、ここまでの道のりを考えますとこれでも上出来だったと言っていいでしょうねえ。実はこの曲の前まで、新聞少年まではですね、RCAスタジオといっても古い方で録音されていたんですね。で、このアップタウンは初めてRCAのBスタで録音されました。
Bスタジオのエンジニアはビル・ポーターBill Porter、新しくできたスタジオの設備を整えてすばらしいサウンドを出していたのは、このビル・ポーターの手腕によるもんだったんです。
で、59年に下準備が完了したRCA Bスタに60年春、いよいよエルビスが帰ってきます。でBスタは3月20日から、エルビスようにスタジオ・ミュージシャンも全員全部押さえて、エルビスの復帰の準備をしていました。ですからオービソンの次のレコーディングは、エルビスが終わるのを待たねばならなかったんですね。しかし、このオービソンのアップ・タウン・セッションは、結果的にエルビスのカム・バック・サウンドを作っていたことになるんです。同じスタジオ、同じミュージシャン、同じエンジニアでエルビス・イズ・バックは録音されました。そしてロイ・オービソンもこの後、栄光の60年代を迎えることになるんですが、それはまたナッシュビルの60年代のコーナーでお話しすることにいたしまして、本日はここまでといたします。
大瀧詠一のアメリカンポップス伝パート3の第1夜は、「その後のナッシュビル」と題しましてお聞きいただきました。それではまた明晩。