大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2 第2夜
2012年8月28日放送
(放送内容)
大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝 パート2 えー昨晩は1956年にスポットを当ててお話をいたしました。
本日の第2夜は、その翌年1957年に行って見たいと思います。ニュー・メキシコ州はクロービスという町がありまして、そこでサム・フィリップス的な存在であったところの、レコード・プロデューサー、ノーマン・ぺティの話から始めてみようと思います。
Mood indigo / The Norman Petty Trio
ナッシュビルから西に1,500㎞くらいですかね。ニュー・メキシコ州にクロービスという町があります。バディ・ホリーの故郷ラボックからさらに、100㎞くらい西にあるところなんですが、個々の出身のノーマン・ぺティという人、この人は地元のラジオ局でアナウンサーとエンジニアをしていました。
ダラスの有名なレコーディング・スタジオで働いていたこともあって、自宅にスタジオを立てたんですね。そこで、録音されたのが、この、後ろで流れているこの曲でした。
Norman Petty Trio – Mood Indigo
えー、奥さんなどと組んでしたノーマン・ぺティ・トリオの、この、ムード・インディゴ、これは1954年に14位となるビッグ・ヒットだったんですね。で、それで入ってきた印税を更にスタジオの拡張費に使いまして本格的なスタジオ経営に乗り出したというわけです。で、56年になりますとロックンロールのブームが起きまして、地元の若者がたくさん押し掛けるようになったんですね。その中に北ダラス大学の学生バンドがあったんです。グループ名が、ウィンク・ウェスタナーズという風に名乗っていましたが、彼らの既にデモ・レコードを一枚作っていたんですね。
で、本格的にもう一度レコーディングし直したいということで、このスタジオにやって来たんです。では、そのデモ・レコードを聞いてみましょう。
Ooby Dooby (demo) / Wink Westerners
<Roy Orbison & The Wink Westerners – Hey Miss Fannie>
<アーティストはWink Westernersだが、曲は別>
<ロイ・オービソンのウービー・ドゥービーだがウィンク・ウェスタナーズでない。>
リード・シンガーとリード・ギターはロイ・オービソンです。ロイ・オービソンは、この北テキサス大学の大学生だったんですね。
で、オービソンは、この演奏を学内の友達が演奏していたのを聞いていたんだそうですね。それで、そのバンドへ行って、「おい、これ、俺たちにくれよ」ということで、友人たちは快諾して、ロイ・オービソンとウィンク・ウェスタナーズの曲になって、で、彼らはコロンビアのドン・ローのもとに送ろうという予定で、このデモ・レコードを作ったんです。ちなみに、この北テキサス大学というところは、年齢はうえですがパット・ブーンがこの頃通っていたんだそうですね。
同じ科目ではオービソンと、一緒のクラスになったことがあるとかないとか、そういう噂がありますね。ただ、パット・ブーンはそのころ、エイン・ザッタ・シェイムを、もう1位にしてましたから、これは、大学内では物凄い人気だったと思いますね。で、この学校っていうのは、もう、有名なミュージシャンがいっぱい出てるんですね。他には、ボビー・フラ・オーのボビー・フラ、それから、イーグルスのドラマーのドン・ヘンリー、更にノラ・ジョーンズですね、ラビ・シャン・カールの娘さん、この人もこの北テキサス大学の出身で、ロイ・オービソンとパット・ブーンの後輩だということになるんですね。
さて、ウービー・ドゥービーの、このデモ・レコードですけど、せっかくロイ・オービソンが送ったにもかかわらず、このドン・ローという人は自分の担当のバンドに、この曲をやらせたんです。それが、シド・キングとファイブ・ストリングス。
Ooby Dooby/Sid King & The Five Strings<アーティストはSid King & the Five Strings>
このR&B調のアレンジは人気が高いんですね。僕もこれ好きなんですけど、まあ、ヒットはしなかったんですね。コロンビアのドン・ローは、なぜ、ロイ・オービソンを契約しなかったか、ということなんですけども、この人はバディー・ホリーにも有っていたことがあるんだそうですね。
で、オービソンと、ホリーの共通というと眼鏡しかないんですね。で、確かに日本でも70年代前くらいまでは、眼鏡をかけてロックンロールをするとかバンド活動をするという人はあまり多くなかったですよね。ですから、アメリカでも眼鏡をかけたロックンローラーはどうかな、っていうような判断はあったんじゃないんでしょうか。まあ、それで思い出すのは関係ないんですけど、あの、古田捕手ですよね。えー、あの人も1年目は、眼鏡をかけたキャッチャーは大成しないということで、1年目は、ドラフトはどこも指名しなかったんですよね。まあ、その翌年に指名されて、大捕手となりましたけれども。まあ、バディー・ホリーとロイ・オービソンにもそういう共通項があったということですね。で、オービソンは自分の楽曲を他人に取られたので、そこでノーマン・ぺティのスタジオにやって来て、そこで、再び録音し直そうと思ったわけですね。で、ウィンク・ウェスタナーズはティーン・キングスと名前を変えまして、ノーマン・ぺティ・スタジオで2度目の・ウービー・ドゥービーの録音を行いました。
Ooby Dooby / Roy Orbison & The Teen Kings
これも、マイナー・レーベルからリリースされたんですけども、これもヒットしなかってんですね。ですから、シド・キングとロイ・オービソンは痛み分けという風に終わったんです。で、オービソンとティーン・キングスは演奏活動を続けていたわけなんですけれども、そこへ西テキサス大学の学生バンドがやって来て、「君たちのレコードはどこで録音したんだ」という風に聞いてきたんですね。で、オービソンは、「ノーマン・ぺティのスタジオだよ」と教えてあげたわけです。で、彼らは早速、ノーマン・ぺティのスタジオに言って録音します。そのバンドの名前は、リズム・オーキッズという、このバンドは二人、リード・ボーカルがいたんですね。その中の一人のジミー・ボーエンの曲を聞いてみましょう。
I’m Sticking With You / The Rhythm Orchids
ジミー・ボーウェンでアイム・スティキング・ウィズ・ユーでした。もう一人リード・ボーカルがいて、その人は、バディ・ノックスという名前です。
Party Doll / The Rhythm Orchids
えー、パーティー・ドル、バディ・ノックスでした。2曲ともメンバーの自作なんですが、録音したのは56年の4月です。最初はマイナー・レーベルから出していたんですけども、地元に友達のDJがいたんですね。え、この頃はDJです。で、彼らがニューヨークのできたばかりのレーベルにこのレコードを送ったんです。で、そこの社長、ジョージ・ゴールドナーGeorge Goldnerといいますが、彼はギャンブル好きだったので、ルーレット・レコード rouletteっていう名前にしたんですけども、そこから57年に発売したんです。
そうしたところ、この2曲とも両面ヒットとなったんですね。特にバディー・ノックスのパーティ・ドル、これは1位になりました。で、R&Bでも3位に行くという大ヒットだったんですね。で、ノーマン・ぺティのスタジオから、ついにナンバー・ワン・ヒットが出たということになります。で、B面のアイム・スティッキン・ウィズ・ユーも14位、R&B9位という、両面とも物凄いヒットだったわけですね。で、この二人は一気に全米のアイドルになりました。ところで、このドラム・サウンドが変わっていたと思うんですけども、これはスネア・ドラムじゃないんですね。
段ボールなんです。段ボールの上にタオルを敷いて、中にマイクを入れるんですね。それで、拾った音なんです、これが。で、こういうのが自宅録音ならではなんですよ。で、例えばこのアイデアを大きなスタジオでやろうとしても、簡単に却下されるんですね。えー、サム・フィリップスもノーマン・ぺティも録音技師から音楽プロデューサーになった人ですからね。その経歴がものを言ってると思いますが、そのような人たちが、支えてきたのが、このロックンロールの時代だったということでもあるんです。えー、で、このバディ・ノックスと、ジミー・ボーウェンは先輩格であるところのバディ・ホリーやロイ・オービソンを差し置いて早めに大ヒットして、早めにスターになりました。そこでバディ・ホリーも少し焦ったんだと思うんですけども、バディ・ホリーにはリード・ギターが、ソニー・カーチスというリード・ギターがいたんですがね、彼が脱退して、ギターは一人になったので、バディ・ホリーはいろんなスタイルを研究するんですね。まずはチャック・ベリー。
Brown Eyed Handsome Man /Buddy Holly
ミリオン・ダラー・カルテットでも歌ってましたけどね、この頃、ロックンローラーには大人気だったんですね、チャック・ベリーね。で、ギターが一人になりましたから、歌ってるときはサイド・ギター、間奏はリード・ギターって、なったんですね。後にバディー・ホリーのスタイルはこういう風になるんですけど、リード・ギターがいなくなって、一人になったので、こういうスタイルになった、という風なことだったんですね。
さて、もう一人ギター・スタイルを参考にした人がいます。ボー・ディドリー。
Bo Diddley/Buddy Holly
ボ・ディドリーの、このギタースタイルも強烈ですからね、この二人のギター・スタイルから特に影響を受けています。さて、56年にバディー・ホリーは2枚シングルを出したわけですが、まったくヒットしませんでした。で、57年の1月にはデッカから、契約を打ち切るという風に言われてしまったんですね。で、ホリーはデッカと契約問題でもめたという話になるんですけども、一番の問題は夏に録音したお蔵入りの曲です。で、デッカ側は向こう6年間、新録もしてはならないというようなことを言ってきたんですね。で、ホリーの側としては何とか新録で出したいということで、で、そこで、助け舟を出してきた人がいるんです。デッカ・レコードの兄弟会社でコーラルというのがありますが、コーラル・レコードの社長ボブ・シールという人が出てきましてですね、で、彼は、「前のは契約したのはバディ・ホリー個人だから、今度はグループで出せばいいんだ」、というアイディアを出したんですよ。で、早速「何でもいいからグループ名を決めろ」という風に言って、クリケッツ、というグループ名で次の曲が発売されました。
That’ll Be The Day / The Crickets
えー、ザッツル・ビー・ザ・デー、クリケッツでお送りいたしました。歌ってるのはバディ・ホリーで演奏は何にも変わりはないんですけれども、デッカと契約問題でもめたので、こういうことになったんです。でも、ナッシュビルの最初のバージョンよりもコーラスが入ったりと、なかなかポップな仕上がりになっているのは、プロデューサーのノーマン・ぺティの助言も多少はあったのではないかという風に思うんですけど、そのおかげで、災い転じて福となすと言いますかね、何がどのようになるか分かんないもんですが、これでロック史に残る名曲が誕生したというわけです。で、この曲は57年8月に登場しまして、見事にポップ・チャートで1位を獲得しました。で、R&Bチャートでは2位だったんですけどもね、ノーマン・ぺティ・スタジオからは続いて、ナンバー・ワン・ヒットが出たということになります。これで、ノーマン・ぺティ―にも注目が集まりだしたわけですね。本家のデッカは当然クレームをつけてきたわけですけれども、以前お蔵入りしていたバージョンをバディ・ホリーとして出したんですが、それはヒットしなかったんですね。で、クリケッツというバンド名は、契約の問題でできたという話でした。
で、ホリーはこの難問を解決してくれた方々に感謝の意味を込めてザットル・ビー・ザ・デイの替え歌を作ってるんですね。まずはコーラル、それから、ブランズウィック・レコードBrunswick、両方の社長だったんですけど、ボブ・シールBob Thieleに対する、この、ザッツル・ビー・ザ・デイです。
That’ll Be The Day (A Variation Of A Song) / Buddy Holly<放送された音源でない>
相当、あれですねえ、デッカの上層部へのひにくが込められているように私には感じますけどね。新しく契約した日だぜ、っていう、ザットル・ビー・ザ・デイていうような感じでしたが。このタイトルは、ジョン・フォード監督で、ジョン・ウェイン主演のサーチャーズって言う映画ですが、それからとったっていうのは有名ですね。
で、ドラマーのジェリー・アリソンが映画館で観ていて、ジョン・ウェインが、そのセリフを言うのを見て「カッコいい」と思って、それを歌にしようということでした、ということです。これもご存知の通り、サーチャーズって言うのは、このエピソードからとったっていう風に言われております。で、クリケッツっていうバンド名を決めたのもジェリー・アリソンJerry Ivan Allisonでした。
彼はニュー・オーリンズのスパイダースというグループが大好きだったんですね。ウィッチ・クラフト、恋の・・・、ドン・ドゥ・ザ、プリ―・ストッピ・プリー・ストッピ・ナウ(Don’t do that, plese stop it, please stop it,now)っていう、僕はエルビスのボサノバ・ベイビーのB面で知ってるんですけども、それのオリジナルのスパイダースっていうのが好きだったので、昆虫の名前にしようと決めたんだそうですよ。
で、彼は手元にたまたま昆虫図鑑があったのでそれを順番に見て行ったそうです。ですから最初は、アンツがあったはずですね。蟻が。で、Aの次はBです。となるとBですから、ビートルは必ずあったはずなんですね。で、次はCで、クリケッツになったっていうことですが、このラボックっていうところは映像では、見たことがありますが、本当に一面、野原だらけなんですよね。で、彼らは練習は納屋みたいなところでやってるんですけども、録音していると雑音が入るんですね。で、なんだと思ったらコオロギがいるんですね。クリケッツ。で、クリケッツがものすごく多いので、クリケッツにしたということなんです。
ですから、これがね、カブトムシが多い地方だったら、ビートルズになってたんですよ、これが、たぶんね、という風に思うんですけど。後のビートルズは、このクリケッツにあやかって、昆虫シリーズで付けたという風に言われております。ブランズウィックの社長、ボブ・シールは、クリケッツとソロ、と、バディー・ホリーの二毛作シリーズというのを考え出すんですよ。で、ノーマン・ぺティ・スタジオでバディー・ホリーたちが作ったのを、これはクリケッツ、これはバディ・ホリーという風に、次々に出して行ったということですね。で、バディ・ホリー名義、ソロ名義の第1弾で、選ばれた曲はこれでした。
Words Of Love/Buddy Holly
バディ・ホリーでワーズ・オブ・ラブでした。ホリーには、ザットル・ビー・ザ・デイのようなロックンロールタイプだけでなく、このようなスリー・コードを使ってポップなメロディーを作るというのの、ほんとに天才なんですね。
で、彼が長く愛された理由は、ここにあると思います。普通の人は、アップ・ビートのものだけやってると、飽きられちゃうんですよね。このスリー・コードの単純なポップなメロディー、これが本当にバディ・ホリーの特徴でありました。ところがこのデビュー曲はヒットしなかったんですが、7年後くらいにですね、ビートルズがカバーして、世界中のポップ・ファンが知る曲という風になりました。
さて、次はクリケッツ名義の第2弾です。もう、どっちがどっちかわかんないです。ま、適当に付けたんだと思いますけどね。ノーマン・ぺティのスタジオに、続々、若いアーティストが集まったという話はしたと思います。その中に、ソニー・ウェストという人がいまして、その人もデモ・テープを作っていたんですね。
All My Love(demo) / Sonny West
これは、オール・マイ・ラブというタイトルで、このソニー・ウェストは自分でやろうと思ってデモを作ったんですが、ノーマン・ぺティは、これはバディ・ホリーに歌わした方が良いと、ということでバディ・ホリー用の曲になったんですが、クリケッツ名義の第2弾として発売されました。タイトルも、オー・ボーイ。
Oh Boy/The Crickets
オー・ボーイ、クリケッツでお送りいたしました。これも、トップ10入りを果たしまして、R&Bでも13位まで上がって、もう、ここまで来ますと、出るレコード、出るレコード、なんでもチャートに入るというくらいに、ノリノリの状態になってきたということですね。これのB面だったのが、ボ・ディドリー・リズムを使った曲で、ノット・フェイド・アウェイです。ドラマーのジェリー・アリソンは得意のドラムの代わりに段ボール箱をたたいて、います。
Not Fade Away/The Crickets
ノット・フェード・アウェイ、クリケッツでしたね。このB面はヒットしなかったんですけれども、これまた、7年後にローリング・ストーンズがアメリカのチャートに入れたんですね。
で、ローリング・ストーンズのアメリカ・デビューの曲という風になったんです。我々はローリング・ストーンズの方から聞いてるので、ミック・ジャガーに合った曲だなと思ってしまうんですがね、オリジナルはバディ・ホリーだったということです。さて、先ほどの、オー・ボーイ、クリケッツ名義のオー・ボーイがチャート・インされる前に、2週間前に、バディ・ホリー名義の、もうこの辺ややこしいんですけどね、その曲がチャート・インされまして大ヒットいたしました。
Peggy Sue / Buddy Holly
バディ・ホリーでペギー・スーをお送りいたしました。で、間奏をリード・ギターでなく、サイド・ギターで、強引の全部持っていくという、このバディ・ホリーの独特のスタイルですね。これはポップ3位、R&B2位で、ビッグ・ヒットになりました。ですから、ザットル・ビー・ザーデイの次に有名な曲ということになりますと、このペギー・スーということになると思います。で、これはドラマーのジェリー・アリソンの当時の彼女の名前だったということですね。もとは違う女の子の名前で作られたという風に言われております。何と言いましても特色はドラムですね。トコトコトコトコ、という連打なんですけど、ほんとにジェリー・アリソンという人はアイデアマンですね。これをジェイ・P・モルガンのヒット曲からとったという風に枯葉発言しています。
Dawn/Jaye P. Morgan
ジェイ・P・モーガンのドーンというヒット曲です。確かにスネアが、トコトコトコトコ、と言ってましたよね。なるほど、ネタというのは、いたるところに眠っているものであります。あとは、掘り起しいかんという、これがポップ・ミュージックのだいご味なんですね。この後もクリケッツ、バディ・ホリーと次々にレコードを出して、ヒット曲を飛ばし続けるわけなんですけど、バディ・ホリーのコーナーはここで一旦お仕舞いといたします。
さて、ノーマン・ぺティのスタジオで唯一ヒットのの無いロイ・オービソン、2回もウービー・ドゥービーを録音したのに、ヒットしませんでした。で、彼はティーン・キングスのバンド活動は続けていたわけです。その時にジョニー・キャッシュと知り合いまして、彼からサム・フィリップスを紹介されたんですね。
そこで、エルビスが去った後だったんですが、サン・レコードと契約いたします。そこで、本当にしぶといロイ・オービソンの真骨頂、3度目のウービー・ドゥービーです。
Ooby Dooby / ROY Orbison
ウービー・ドゥービー、ロイ・オービソン、3度目のレコーディングでしたが、この執念の甲斐あってですね。ポップ・チャートで59位にランクされました。良かったですね。ようやくヒットが出たんです。で、この週の第2位はハートブレーク・ホテルだったんですね。59位だったんですが、エルビスと同じ週にチャート・インできたということで、ロイ・オービソンとしてはうれしかったんじゃないでしょうか。ところが、ヒットはしたものの、これから全く続かないんです。で、この後、ロイ・オービソンがポップ・チャートに登場するのは、ここから4年後なんですね。えー、まあ、ほんとに気の毒な人ですけれども、オービソンの春も、まだまだ遠かったということです。
サン・レコードは55年暮れにエルビスを失いましたが、カール・パーキンスのブルー・スエード・シューズが大ヒット、ジョニー・キャッシュも安定的なヒットを飛ばしていて、そこにロイ・オービソンが参加して59位に、一応はランクインしたので、これでなんとか行けるかと思っていたんですけれども、頼みのオービソンが、その後ヒットしないということで、ちょっと困っていたんですね。そこに救世主が現れたわけです。それが、ミリオン・ダラー・カルテットでもちょっと触れましたが、ジェリー・リー・ルイス、彼のデビュー曲は、クレイジー・アームス。
Crazy Arms /Jerry Lee Lewis
ジェリー・リー・ルイスで、クレイジー・アームスでした。この曲は、ヒットはしなかったんですが、歌はうまいですからねえ、それと、サン・レコードにとっては貴重なピアノ・プレーヤ―だったわけで、彼はその後も、貴重なセッション・マンとしても随分参加しているんですね。で、その間、クラブなんかで演奏していた時に、同じピアノ・プレーヤ―のロイ・ホールという人に合うんです。で、彼からこの曲を教えてもらったんですね。
Whole Lotta Shakin’ Goin’ On / James Faye “Roy” Hall
これが、ロイ・ホールが作った、ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オンです。これをジェリー・リー・ルイスは自分のスタイルでカバーしました。
Whole Lotta Shakin’ Goin’ On /Jerrγ Lee Lewis
ジェリー・リー・ルイスで、ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オンでした。何と、これがばか当たりで、ポップ3位、カントリーとR&Bで1位になったんです。つまり、サン・レコードでは2曲目の3部門制覇となったわけですね。これは、サム・フィリップスはうれしかったでしょう。ちょうど、経営が苦しくなってきた時期ですからね。しかし、このサン・レコードというのは、よくよく、この、才能が集まるところなんですね。で、こういう偶然の集合と言いますかね、出会いというか、こういうものが時代を作っていくんですね。いや、これは準備されたものでなくて、予測不能なところがキー・ポイントだと思いますね。
で、このように突如、登場したニュー・スターを芸能界が放って置くわけはなくて、早速、映画界から声がかかります。ジャンボリーという映画で、DJで、テレビで人気がありました、ディック・クラークが中心になって、ディスク・ジョッキーがたくさん出て来るという、別名、DJジャンボリーDj Jamboree Dick Clarkと言われた、この映画だったんですね。
えー、この頃はもう、歌手と並んでDJもスターだったという、それで映画も作られているということなんですね。この映画には、カール・パーキンスやバディー・ノックス、ファッツ・ドミノも出ているんですけど、この主題歌も、ジェリー・リー・ルイスも担当するという風になっていたんです。で、しかも作家は、あの「冷たくしないで」を作曲した、オーティス・ブラックウェルが起用されると、もうそこまで決まっていたんですね。
ただ、これはもう、急いだ仕事で、やっつけみたいな感じだったらしいんですが、また、それが良かったのかどうか、まさに、この曲は、ジェリー・リー・ルイスのために存在したと。ジェリー・リー・ルイス以外にこの曲の表現者はいないという、ぴったりの曲が出来上がりました。
Great Balls Of Fire/Jerry Lee Lewis
ジェリー・リー・ルイスでグレート・ボール・オブ・ファイヤーをお送りいたしました。これも、1秒として無駄のない完成品ですね。素晴らしいです、これも、ポップ2位、カントリー1位、R&B3位と3部門制覇をいたしました。カール・パーキンスは1曲しかなかったんですが、後輩のジェリー・リー・ルイスは連続で3部門制覇を成し遂げたということで、この後、自分の歌のテーマが出て、車の上にピアノを載せてですね、冒頭で歌いながら出て来るというような映画もありました。まあ、人気者になったわけですね。最も、この57年のエルビスにはですね、三部門首位という曲が3曲もあったという年なんですね。ですから、3部門制覇は、あまり珍しくない時代になってきていたんですけど、まあ、いずれにせよ、横綱エルビス、大関ジェリー・リーというような感になって行ったんじゃないでしょうかね。1957年はジェリー・リー・ルイスにとっては、ゴールデン・イヤーだったわけです。
さて、サン・レコードには、他にもたくさんのアーティストがいたわけですけれども、その中から、サックス・プレーヤーのビル・ジャスティスという人の曲を聞いてみましょう。彼が作ったインストルメンタルがですね、大ヒットしたんです。
Raunchy/Bill Justis
こちらの方が話題になったんですね。この、ロンチーという大ヒット曲なんですが、これは、ポップが2位、カントリー6位、R&Bで1位だったんでよ。で、3部門制覇の曲が、またサン・レコードから出たということですね。まさか、サム・フィリップスも、これがこんなに大ヒットするとは思わなかったと思うんですけども、この翌年の58年からはインストルメンタルのブームになるんです。この曲が火付け役だったということも言えると思います。これも動画サイトの話なんですが、ジョージ・ハリソンとポール・マッカートニーが一緒にギター弾いているときに、どちらかが、このロンチーのイントロを弾いて、「ああ、ロンチー、よくやったよねー。」てな、話をしてましたね。
ですから、ロックンローラーというか、ロックンロール・ファンの人は、誰でも知っているという曲だったんですね。これもサン・レコードからのヒットということで、まさにサン・レコードはロックンロールの故郷だったという風に言えると思います。さて、本日の最後はまたまた、エルビスの登場です。
1957年のエルビスというのはですねえ、映画ラブ・ミー・テンダーが終わってから1年間映画を作り続けたんですね。
2本の主演映画と、3本目の既に企画がありました。で、映画の主題歌と、時々レコード用のオリジナル曲を歌うと、そういうことで1年間、ハリウッド住まいだったんですね。確かに、その前は、安モーテルでのツアーの連日だったわけですから、夢の生活だったと思いますよ。で、LAではラジオ・レコーダーズというスタジオがほとんどでした。57年のエルビスのヒット曲を並べてみました。ラブ・ミー、トゥー・マッチ、オール・シュック・アップ、テディ・ベア、ジェルハウス・ロック、ドントゥ、ウェア・マイ・リング・アラウンドゥ・ユア・ネック、ハード・ヘッデッドゥーマン、いずれも3部門制覇の曲ですね。中でも、オール・シュック・アップ、テディ・ベア、ジェルハウス・ロックっていうのは、いずれもナンバー・ワンになった曲でした。
Love Me / Elvis Presley
Too Much / Elvis Presley
All Shook Up /Elvis Presley
Teddy Bear/ Elvis Presley
Jailhouse Rock / Elvis Presley
Don’t/ Elvis Presley
Wear My Ring Around Your Neck / Elvis Presley
Hard Headed Woman/ Elvis Presley
アメリカン・ポップス伝パート2、その第2夜は、1957年のシーンを中心に、バディ・ホリーのノーマン・ぺティ・スタジオ、それからエルビス後のサン・レコード、救世主ジェリー・リー・ルイス、そして1957年のエルビスのヒット・メドレーをお送りいたしました。あのメドレーは主だったヒットだけで、エルビスがチャートの登場させた楽曲はですね、あの3倍くらいは優にありました。で、映画もレコードも大ヒットの連続で、1957年というのはエルビス・イヤーのパート・トゥーでもあったわけです。
それではまた明晩。