それは、後に分かったことだが、リトル・リチャードの本家本元だったスティーブン・クインシー・リーダーSteven Quincy Reederは、通称SQリーダー S.Q.Reeder、またはエスケリータEsqueritaと言い、ジーン・ビンセンツ・ブルー・キャップスGene Vincent’s Blue Capsのポール・ピークPaul Peekが、ブルー・キャップスThe Blue Capsの出身母体と同じ怪しげなバーで演奏しているのを見つけた人物で、ピアノを演奏する狂人だった。





リチャードが自伝の中で語ったように、1950年代初期にメイコンのバス停にいたリチャードを見つけ出した後、ピアノの演奏を教え、ヘアスタイルを作り上げるのにも一役買った。同時に彼は、「恵みのパン」を売る技のある女伝道師と一緒にツアーに行ったが、10年間にわたって似たような別名をいくつも使って現れ、ディスコ時代にはファブラッシュFabulashという名前で登場した。キャピトル・レコードCapitol recordsはアルバムができるほど十分な曲数を録音してあったが、彼をどう扱えばいいのか見当がつかなかった。もちろん、キャピトルはジーン・ビンセントGene Vincentもどう扱ってよいか分からなかったが、ジーンはアメリカよりもイギリスの方でずっと人気があった。

結局エスケリータは消えた後、1975年にニューヨークで駐車監視員として突然現れたものの、彼のレコード、特に、「エスケリータ・アンド・ブーラEsquerita and the Voola」は言葉を使わずに叫ぶオペラのようなインストゥルメンタルで、人々を混乱させたり楽しませ続けた。

![Esquerita – Esquerita And The Voola / Rockin' The Joint – Vinyl (Scranton Pressing, 7", 45 RPM, Mono), 1958 [r32243265] | Discogs](https://i.discogs.com/OU6lv04WfEzIKipdlVETAE-Z9ZENz4ufJNjW0s0h7DY/rs:fit/g:sm/q:90/h:595/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTEzMDU5/ODQyLTE3MzExNzY3/NDItNjE5My5qcGVn.jpeg)
でもちょっと待って。ティーンエイジャーはヒルビリーやゲットーの音楽にうんざりしていて、本当に必要としているのは次のシナトラだと考える人がいたらどうだろう。良い音楽が戻って来る時期で、フィラデルフィアのチャンセラー・レコードChancellor recordsがそれに向けて取り組んだのだ。この会社は、ボブ・マルクーチBob Marcucciとピート・デアンジェリスPete Deangelesが経営し、ハンサムで伝統的なものを重視し、ティーンの親たちが渋々認めるような曲を歌うティーン達に狙いを定めた。


「私たちは、アーティストにショー・ビジネスのことを教え込む学校を経営している」とマルクーチはビルボード誌に語った。「私たちは、『ディーディー・ダイナDede Dinah』を作る前に3か月間フランキー・アバロンFrankie Avalonと取り組んだ。」

このレコードは1958年初めにトップテンに入ったが、アバロン(本名フランセスコ・アバロンFrancesco Avallone)は、フィラデルフィア訛りを利用し、「ナッシン・ファイナ」を「ダイナ」と韻を踏んだのだが、チャンセラー学校に行く前はどんなだったろうかと思うのは無理もないことだった。アバロンは落ち着いてエスニック色の無いタイプのハンサムだったが、フェビアンFabianもそうだった。フェビアンの苗字はフォートForteで、アバロンがマルクーチに紹介し、フェビアンはボーカルの仕事をたくさんほしいと言った。

言うまでもないが、ディック・クラークは全面的にチャンセラーを支持し、アメリカン・バンドスタンドAmerican Bandstandでそのアーティストやレコードを徹底的に押し出した。


彼らは地元の男の子などで、ディックのダンス・フロアから引っ張ってくることができた。
