これからやって来る季節を見込んで、マーセルズThe Marcelsは11月後半に「メリー・ツイストマスMerry Twist-Mas」をリリースした。
![The Marcels – Merry Twist-Mas – Vinyl (7", Single, 45 RPM), 1961 [r3466204] | Discogs](https://i.discogs.com/_VFT4ohrzzMe5xcUtwFBL1HYbgEW7GSD8HcwdwBK3E8/rs:fit/g:sm/q:90/h:591/w:600/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTM0NjYy/MDQtMTMzNDY5MTI2/OS5qcGVn.jpeg)
![The Marcels – Merry Twist-Mas – Vinyl (7", 45 RPM, Single), 1961 [r5649735] | Discogs](https://i.discogs.com/M__VX3T8jO47IoObgXgrrVhV4t4LBD113c1HB140j7E/rs:fit/g:sm/q:40/h:300/w:300/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTU2NDk3/MzUtMTM5ODk0NTc2/Mi02NjE3LmpwZWc.jpeg)
この頃は珍しく靄が晴れたタイミングだったが、クリスマスのシングルは長い間、出来が悪く、今まではチップマンクスThe Chipmunksをテレビスターにしてきたアメリカ大衆が、この曲をヒットさせなかった。

今から振り返ると重要だと思われることが年末にたくさん起きたが、あまりに散乱していたので、それがどれ程重要か分からなかった。一つには、連邦通信委員会がFMステレオ・ラジオの規格を規定する努力をしていた。AMとFMの周波数を持つ放送局はどこも、それぞれの周波数帯に別々の番組を一定割合提供しなければならないと言う決定が出てから、FMの優れた音質はハイファイ・マニアに売り込めるものであり、ジャズやクラシック音楽にとって理想的な媒体だと多くの放送局が認識した。今や、多重送信という技術によって、右と左、二つの信号を同時に放送し、レシーバーで解読することができるようになり、電機メーカーのために技術を統一することが重要となった。1961年のほとんどはこのことにかかり切りだったが、最終的には飛躍的進歩となった。他のアイデアも遡上に上がっていて、コンパクトな33回転シングルはより良い音で、ステレオで録音でき、B面に追加で数曲分入れられる。ジュークボックス会社がアメリカにあるすべてのジュークボックスを置き換えたがらなかったために、このアイデアは消えた。ペーパーバック・サイズだがそれほど厚くなく、レコードと同じくらい便利でもっと良い音で聞ける、RCAの画期的新技術もボツになった。これは数か月で消えたが、基本的考えは復活した。
音楽は、混乱状態だった。9月、ビルボード誌Billboardは、アメリカのラジオ局の38パーセントがカントリー・ミュージックを流しているのに、なぜカントリー・レコードの売上がこれほど情けないのか、という記事を掲載したが、これは、主に田舎の視聴者がレコードをかける時間やレコード・プレイヤーにかけるお金をほとんど持っておらず、わずかな娯楽費を、自分たちが住む人里離れた町の近くで頻繁に演奏し、いつもラジオから聞こえてくるカントリー・アーティストに使うことを望んでいたことを考慮に入れていない。カントリーは、いくつかの例外を除き、大体においてポップ市場に入らないというのが実情であった。ドン・ギブソンDon Gibsonのナッシュビル・サウンドNashville Soundのシングルは、ポップのラジオ局でかかったが、本当に成功したのはパツィー・クラインPatsy Clineで、デッカのハロルド・ブラッドリーHarold Bradleyが彼女にとって有効な方法を発見するまで、彼女の作ったカントリー・レコードは二流だった。


クラインは1958年に「ウォーキン・アフター・ミッドナイトWalking After Midnight」をヒットさせたが、

とてもカントリーとは言えず、1961年の春までその経歴はパッせず、その時、ナッシュビルの二人の偉大なソングライター、ハンク・コクランHank Cochranとハーラン・ハワードHarlan Howardが、


彼女の気持ちを込めた歌唱法にぴったりの曲「アイ・フォール・トゥ・ピーセスI Fall to Pieces」を作ってあげた。

この曲が発売されて数か月たった時、自動車事故があって仲間の同乗者が死に、彼女もこの曲と同様にバラバラになりそうだったのだが、風変りなソングライターのウィリー・ネルソンWillie Nelsonによる奇妙なコード変更の独特な曲「クレイジーCrazy」を録音した。

ネルソンは、レイ・プライスRay Priceのベイシストをしばらくしていて、

陸軍から戻ってきたばかりの時、オレゴン州(ここでネルソンはDJに関する曲「ミスター・レコード・マンMr. Record Man」を書き、リバティ・レコードLiberty recordsで自ら歌ってカントリーの小ヒットになった)でソングライター兼DJとして奮闘していて、この時ナッシュビルにあるトゥリー・ミュージック出版社Tree Musicに雇われ、もっと変わった曲を書いていた。

「クレイジーCrazy」はポップスのトップテン・ヒットとなり、カントリーでもヒットして、クラインは明らかにポップスのスターダムに向かっていた。
