エスターのたくさんあるレコーディングに参加して、改善してくれたのはメル・ウォーカーMel Walkerで、メルもまたオーティスのクルーをバックにして自分の名前でレコードを出した。
オーティスの知り合いで、オーティスが白人だということを知っているのはほとんどおらず、カリフォルニア州バークレーの雑貨屋を経営するギリシャ人夫婦の息子ジョン・ベリオテスJohn Veliotesとして生まれた。ジョンの最初の自伝リッスン・トゥ・ザ・ラムスListen to the Lambsには、どのようにして黒人に「なった」かの奇妙な記述で締めくくられている。
確かに1952年の最も変わったリズム&ブルースのスターは、ゲイの白人歌手で、演奏中に補聴器を付け泣き崩れることもあった。
ジョニー・レイJohnnie Rayは異常であったかもしれないが、家系はしっかりしていて、デトロイトにあるアル・グリーンAl Greenのフレーム・ショー・バーFlame Show Barで一番の人気者だったし、彼の曲「クライCry」はポップとR&Bでトップになった。
そして東海岸ではアトランティックがまだルース・ブラウンで成功していて、1952年末にはチャールス・ブラウンCharles Brownにとてもよく似ている男、レイ・チャールズRay Charlesと契約したが、彼はスイングタイム・レコードSwing-time recordsからレコードを2枚出していた。
しかし本当に新しいスタイルを発明したのはボーカル・グループだった。「シックスティ・ミニッツ・マンSixty Minute Man」がヒットしたドミノーズThe Dominoesのリード・シンガーは、若い時のゴスペルの経験に基づいた感情表現をするクライド・マクファターClyde McPhatterであり、
彼らの「ハブ・マーシー・ベイビーHave Mercy Baby」は、マクファターの嘆願するようなボーカルのおかげで、1952年にR&B3位のヒットになった。
ゴスペルは、たくさんあるこれらのグループにとって出発点だった。アポロ・レコードApollo Recordsでベス・バーマンBess Bermanは、すべてのゴスペルに関する契約書に、もし会社が十分だと考える枚数のレコードが売れなければ、世俗的音楽を歌うべきだという条項を入れたのだが、これに対し、最もよく売れているゴスペル・シンガーのマヘリア・ジャクソンMahalia Jacksonは、こんなにたくさんゴスペル・レコードが売れているのだから、R&Bならどれだけたくさん売れるか想像できるだろうとアドバイスされたとき、アポロ・レコードを去った。
(ジャクソンは、確かにニューオーリンズでブルースを歌ってはいたが、録音はしないで済んだ。)