ニューオーリンズも新しい動きの機が熟していて、実際に始まった。ファッツ・ドミノは次から次へとヒットを量産(刺激的なところや、挑発的なところは決してなく、ニューオーリンズだと分かる唯一の要素は、ニューオーリンズ第9区特有のアクセントとピアノ演奏だ)し、これでコズィモ・マタッサCosimo Matassaのスタディオは食いつなげたが、エーワン・ディストリビューターA-1 Distributorを所有していたジョー・バナシャクJoe Banashakは、「他人のためのヒット曲を作るのはうんざりだ」と言って、1958年にミニットゥ・レコードMinit Recordsを設立した。


ミニットゥが初めて全国ニュースになったのは1961年で、アーニー・ケードウErnie K-Doeの「マザー・イン・ローMother-in Law」がそれまでで最大のヒットになった。

もちろん、さすがニューオーリンズらしく込み入った話で、アレン・トゥーサンAllen Toussaintにまつわることだが、1958年にRCAレコードは、レコーディング契約のためのオーディションに人々を集めた。

アレンは、町中にたくさんいる上手なピアノ演奏者の一人であって成功する見込みがあり、演奏するインストゥルメンタルを気に入ったのだった。20歳のトゥーサンは何が起きているか分からないうちにアルバム、ザ・ワイルド・サウンド・オブ・ニューオーリンズThe Wild Sound of New Orlieans」が、アル・トゥーサンAl TousanのクレジットでRCAレコードから発売され、レコード会社もどうして良いかわからなかった。


もちろん地元では有名になり、セッション・プレーヤーやアレンジャーとしての依頼が増えた。バナシャクは、自身の新レーベルの代表として、人気のある地元のクラブ歌手、アーネスト・カドーErnest Kadorとともに訪れたが、カドーのミニットゥでの最初のシングル「ハロー・マイ・ラバーHellow My Lover」は失敗に終わった。
トゥーサンは自分のための曲を持っていたのか?もちろん持っていた。たくさんね。そこで、トゥーサンはミュージシャンを大勢集めたが、その中にはサクソフォンのアルビン・レッド・タイラーAlvin “Red” Tyle、バス・ボイスのベニー・スペルマンBenny Spellmanがいて、セッションで受けが良く楽しいレコードを作り、そのレコードはバナシャクがユナイテッド・アーティストUnited Artistsと流通契約を結んだ後、アーニー・ケー・ドゥーErnie K-Doeの「マザー・イン・ローMother-In-Law」のようにチャートを急上昇した。
![Alvin "Red" Tyler – Graciously – Vinyl (LP, Album), 1987 [r3839635] | Discogs](https://i.discogs.com/D6UJC4YaCzNN4AjhFrBzeG1so3KTfzNr524A3QnlOb4/rs:fit/g:sm/q:90/h:600/w:597/czM6Ly9kaXNjb2dz/LWRhdGFiYXNlLWlt/YWdlcy9SLTM4Mzk2/MzUtMTUwNjE4NzMy/Ni03NDk1LmpwZWc.jpeg)
突然、ほかの曲と同じようには聞こえない、ニューオーリンズから生まれた素晴らしい曲が次々と出てきた。皮切りは1960年4月、地元のバンドリーダーのジェシー・ヒルJessie Hillが、意味はないけど人の心をひく「ウー・プー・パ・ドゥーOoh Poo Pah Do」を2パートに分けてミニットゥ・レコードからリリースし、次にジョー・ジョーンズJoe Jonesのレコード、「ユー・トーク・トゥー・マッチYou Talk Too Much」がリリースされたが、これはルーレット・レコードが9月にヒットさせた。
![💥' JESSIE HILL ' HIT 45+PICTURE [ OOH POO PAH DOO Part-1 & Part-2 ] 1960 !💥](https://i.ebayimg.com/images/g/baoAAOSwPPVjxAQ3/s-l1200.jpg)

