ポール・アンカPaul Anka(1941-現在)カナダ、オタワ
ポールは13歳でボビーソクサーズThe Bobbysoxersというボーカル・グループを結成した。シンガーとしての粘り強い活動(アマチュア・ショー)により、ソングライター兼シンガーになるという夢であったニューヨークへの旅を勝ち取る。1956年、15歳になったポールは両親を説得し、最近書いた曲「ブラウ・ワイル・デベレスト・フォンテーヌBlau Wile Deverest Fontaine」を録音してくれるレコード会社を探しにロサンゼルスへ行った。
ロサンゼルスでは、オーディションを受けるまでいくつかのレコード会社に電話をかけた。そのレコード会社は、40年代後半にさかのぼるリズム&ブルースとドゥーワップの独立系黒人レコード・レーベルとして、高い成功を収めていた一流の会社だった。モダン・レコードModern recordsは、ロサンゼルス近辺で定評のあるドゥーワップ・グループのひとつ、ザ・シャープスThe Sharpsと彼を組ませた。
1956年、アンカは 「ブラウ・ワイル・デベレスト・フォンテーヌ」と「アイ・コンフェスI Confess」の2曲をリリースした。
「アイ・コンフェス」は元々、女性ドゥーワップ・グループのドッツThe Dotsが1956年にキャディ・レコード・レーベルCaddy Record Labelから録音したものだった。
ポールのレコードはマイナー・ヒットとなったが、チャートインには至らなかった。しかし、「アイ・コンフェス」はアンカのロックンロール・ミュージックのシンガー・ソングライターとしての極めて高い才能を示す曲だった。彼は、黒人レコード・レーベルに足を運び、ドゥーワップのレコードを録音したいと頼むだけの決意と自信と自尊心を持っていたのだ。
ポール・アンカのスターダムへの意欲を止めることはできなかった。ポールはオタワに戻り、ファッツ・ドミノFats Dominoに会う方法を見つけ、ニューヨークに戻り、そこでドン・コスタDon Costa(パラマウント・レコードParamount RecordsのA&R)に会って、オタワで作った曲を何曲か歌った。
コスタは「ダイアナDiana」(ポールが恋をしたベビーシッターの歌)を気に入り、パラマウント・レコードで録音した。
1957年、「ダイアナ」はビルボード・チャートで1位を獲得した。ポールは、「ダイアナ」の成功で全米を旅し、絶叫する女の子たちを興奮させたと語っている。