バンドスタンドAmerican Bandstandの真似をするところが出た。
地元のティーンと地元のタレントで、同じことをするディスクジョッキーがいない都会の方が珍しく、ニューアークでは、ダグ・ジャコ・ヘンダーソンDoug “Jock” Hendersonの後援で黒人のバンドスタンドに相当するものがあった。
ジャコは、フィラデルフィアのWDASで午後4時から6時まで出演し、それから列車に乗ってニューヨークに行き、WOVで午後10時から真夜中まで再び出演した。
ヘンダーソンは、まくしたてるようなジャイブ・トークの連発は言うまでもなく、ティーンを黒人の最新ヒット曲やダンスに向かわせたことに見合う功績は認められなかったが、白人のディスク・ジョッキーたちは自分たちでもできるように十分理解しようとしていた。ジョコス・ロケット・シップ・ショーJocko’s Rocket Ship Showはニューヨーク地域のティーン向けで(テレビで見るもので、電波はマンハッタンでもあまり強くなかった)、ディック・クラークとその仲間たちの代わりになって、もっといかした良いものだった。
しかしながら、ラジオはどうしようもなく地域的なものだったが、レコードのニュースを得る最高の手段だったことには変わりなかった。これがまさに変わろうとしていたのだが、この年の初め、中西部にラジオ放送局のチェーンを保有していたトッド・ストーツTodd Stortzは、ラジオ局の経営者とバーで同席し、何杯か飲んでいたはずである。
ジュークボックスで200曲選ぶことができるのだが、時間がたつにつれ、ほとんどのお客はおんなじ曲を何度も何度もかけていることに気づき、ストーツはそれが約40局だと見積もった。さらにほかのことが続くのだが、それは夜の終わりに、ウェイトレスがチップのお金をつかみ、掃除をして意味を絞める間、それをジュークボックスに入れるのだ。そのレコードは例え夜の間ずっと聞いていても、同じものを選ぶのだ。ストーツは仕事に取り掛かり、オマハのKOWHでやっていたトップ・フォーティーTop Fortyという形式の番組を取り入れた。その組み合わせの方程式は企業秘密だが、ビルボードかキャッシュボックスのチャートだけでなく、ジュークボックス運営業者、レコード店からのレポートも織り込んでいたに違いない。
それが何であれ、うまく行き、たちまちストーツの他の放送局でもそれぞれの都市で市場をリードし始めた。フォートワースでは、複数の放送局を所有する別のビジネスマンであるゴードン・マクレンドンGordon McLendonは自分自身の方式を編み出し自分の放送局で試したところ、これもまた成功した。
もちろん、まあ、自分でプログラムを決定できないことに怒って、辞めるDJもいて、そして、明らかに、レコードをかけてもらうためにレコード会社が払っていたお金がどこかに行ってしまったことを起こったのだ。しかし、このことは、その時までに蔓延していた混乱状態よりはるかに効率的な経営になるのであるから、レコード会社にとっては思わぬ幸運だった。もしストーツかマクレンドンのチェーン放送局(あるいは理想的には両方)があなたのレコードをかけ続ければ、あなたは成功し、ばらばらではなく、一度に何十もの放送局にそのレコードが備わることになる。さらに良いことは、レコードが良いか悪いかを心配する必要がなく、計算がその世話を焼いてくれるのだ。評点が高いほど、チェーン放送局は稼ぎが増え、稼ぎが増えるほど、放送局をたくさん買え、すぐに自分たちが支配している地域市場から飛び出すか、他のチェーンをフランチャイズ化するのだ。さらに、ドラマやコメディ番組を放送するための情報源としては、ネットワークのラジオは凋落していき、その役割は完全にテレビにとってかわられた、音楽やニュース(ローカル・スポーツを含む)しか放送しない独立系放送局が利益面では大いに貢献した。トップ・フォーティーTop Fortyのおかげで、ラジオはまだ大きなビジネスだった。