このようなペテンの行為があったので、サム・フィリップスSam Phillipsは1952年1月にメンフィスで、重いきった行動をとった。
サムは、ジャッキー・ブレンストンJackie Brenstonをチェス兄弟the Chess brothersのところに送り込んで、ロサンゼルスにあるモダン・レコードModern recordsのビハリスBiharisの怒りを買い、その後、ハウリン・ウォルフHowlin’ Wolfのレコーディングしたものを両方に送って、その上BBキング B.B. KingがRPMレーベルで出して1位になったのだから、このレーベルはキングのために作ったようなものだ。
サムは他のレーベルのためにほかのアーティストのレコーディングをしたがヒットはしなかった――しかしもしヒットしたらどうなるのか?古い諺にあるように、蛇のためにカエルを太らせるのはうんざりしていた。「本当はレコード・レーベルを設立したくなかった」と後に語っている。「正直に言って、それだけはしたくなかった。しかし、それらのレーベルが、僕のところのアーティストをメンフィスでレコーディングさせるか、あるいはほかに連れていくか、迫ったんだ。」遠いナッシュビルにいるジム・ブレットJim Bulleitに資金を依頼して、レーベルの名前を考え出したが、それはサンであり、黄色とブラウンのレーベル・デザインは学校時代から旧知のアーティストの好意によるもので、雄鶏、光線を放つ半円、音符(曲にはなっていない)、円の下部にはメンフィス・テネシーMemphis, Tennesseeの表記がある。
2月に、ジャッキー・ボーイ・アンド・リトル・ウォルターJackie Boy &Little Walterの「セリング・マイ・ウィスキーSelling My Whiskey」のダビング・テープをメンフィスのDJ2人に送った。
ジャッキー・ボーイJackie BoyはボーカリストのJack Kelly、リトル・ウォルターLittle Walterはマディ・ウォーターMuddy Waterの有名なハーモニカ奏者ではなくウォルター・マンブルズ・ホートンWalter “Mumbels” Horton(リトル・ウォルターが成功した後はジョニー・ロンドンJohnny Londonとして有名)だった。DJ達は好きにならず、発売されなかった。その代わりに、サムはジョニー・ロンドンのインストゥルメンタルをリリース(レーベルには「アルト・ウィザードAlto Wizard」とあるのが分かる)したが、それはサムが気に入った間違いなく才能あるアルト・サクスフォン奏者だった。
Sun 174はレーベルにある番号で、大して売れなかったが、ある程度商売になった。
ある程度、というのは、同じサン・レコード会社という名前の他の2社も商売をしていたからだ、一つはニュー・メキシコ州にあってレコードを作りインディアンに売っていて、もう1社はイディッシュ音楽を録音するニューヨークのレーベルだった。サムはどうにかして相手に勝った。しかし、兄弟のジュドJudに頼って自動車にレコードの箱を積み込み、南部を自動車で乗り回す流通業者をあえて設立しなかったという事実をちゃんと説明できない。
ビハリ兄弟the Biharisもチェス兄弟the Chess brothersもそうしなかった、ということはわかっている。そしてサンは足場を築こうとして、自分がレコーディングしたアーティスト達をまだチェスに送り込まなければならず、最も有名なのはハーモニカ・フランク・フロイドHarmonica Frank Floydだった。
サムは、自分の秘書/右腕/女性所長のマリオン・ケイスカーMarion Keiskerに、「もし正統派黒人サウンドを持った白人の男の子を見つけ出せれば、10億ドル稼げる」と話し、フロイドは「男の子」という部分を除けば、その要求にぴったりだった。
サムがフロイドのレコーディングを始めたのは彼が44歳だったが、サウンドはメディスン・ショーで南部の田舎を何年も旅して出来上がったものだった。チェス・レコードはフロイドのレコードを発売したものの、いったい誰に売っているのかが分からないままだった。一方サムは、カントリー・ミュージシャンも含めて、誰でもレコーディングする用意はできていた。ナッシュビルとメンフィスはカントリー・ミュージックのライバルの歴史があったのだが、メンフィスはいつも負けていて、その原因の一部は、たくさんのメンフィスのカントリー演奏者が、少なくとも正統派の黒人サウンドと雰囲気を目指していたからだとサムは発見したのだろう。