オダニエルO’Danielはバンド名をライト・クラスト・ドウボーイズthe Light Crust Doughboysに変えたが、オダニエルのためにする仕事は楽しくなかった(オダニエルは権威主義的だったことに加えて頑固な禁酒法支持者だった)ので、ブラウン兄弟the Brown brothersは直ぐに逃げ出して、芝居がかった演技、ジャズ、ベシー・スミスなどの歌手が歌う都会のブルースに影響された、不思議な混成物であるドウボーイズのレパートリーの一部に専念した。
ブラウン兄弟は、これをウェスタン・スイングと呼び、クリスタル・スプリングスで演奏するための基盤を作ったが、ここは、オダニエルが反対したにもかかわらず、ドウボーイズDoughboys’が演奏した町の外にあるリゾートとレクリエーションの地域だった。
ミルトン・ブラウンMilton Brownのミュージカル・ブラウニーズMusical Browniesは1932年から、ミルトンが自動車事故で死んだ1932年まで、デッカDecca recordsでたくさんの楽曲をレコーディングした。
1933年、ウィルズBob Willsもドウボーイズを辞めて、グループを離れたほかの二人と一緒に自分自身のバンドを始め、自分のやりたいことをやるためにプレイ・ボーイ・フラワーPlay Boy Flourにスポンサーになってもらった。
オクラホマ州タルサに移動しKVOOで毎日放送し、ケインズ・ダンシング・アカデミーCain’s Dancing Academyという大きなダンス・ホールの本拠を置いて、自分のバンドをテキサス・プレイボーイズthe Texas Playboysと名乗った。
1935年9月、ボカリオン・レコードVocalion recordsとオーケー・レコードOkeh recordsでレコーディングを行ったが、それには、「メンフィス・ジャグ・バンドthe Memphis Jug Bandの「ラッカス・ジュース・アンド・チッタリンズRukus Juice and Chittlin」、ミシシッピ・シークスthe Mississippi Sheiksの「シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールドSittin’ On Top of the World」、ビッグ・ビル・ブルーンジーBig Bill Broonzyの「アイ・キャント・ビー・サティスファイドI Can’t Be Satisfied」をベースにした「オーセージ・ストンプOsage Stomp」を含んでいた。
これはカーター・ファミリーthe Carter Familyのカントリー音楽ではなかった。
これは大人気となって、また別の人気アンサンブルをたくさん産んだ。ビル・ボイド・アンド・ヒズ・カウボーイ・ランブラーズBill Boyd and His Cowboy Ramblers、ジミー・リバード・アンド・ヒズ・オクラホマ・プレイボーイズJimmie Revard and His Oklahoma Playboys、クリフ・バルナーズ・テキサス・ワンダラーズCliff Bruners Texas Wanderers、テッド・ダファンズ・テクサンズTed Daffan’s Texansがその中にいた。
ウェスタン・スイングは、もし専門でなくても、バンドの演奏曲目に入れておくことも良いことだった。アドルフ・ホフナーAdolph Hofnerのオーケストラは、ほとんどのテキサス・ポルカ・バンドよりも広範囲に旅をしたが、それはチェコ系テキサス人以外の観客に全部スイングのプログラムを演奏できたからだ。
また、ロイ・ロジャースRoy Rogersとボブ・ノーランBob Nolanがリードするボーカル・グループで、「タンブリング・タンブルウィーズTumbling Tumbleweeds」など純粋なウェスタン・ソングで最もよく知られるサンズ・オブ・パイオニアーズthe Sons of the Pioneersをグループ発足の早い時期から、テキササンズ・ヒューTexans Hughとカール・ファーKarl Farrを参加させたのだが、それは、カールがバスを歌えるからだけでなく、情熱的なフィドル演奏とギタリストの兄弟とのデュエットのためだった。
サンズはもちろん、ロイ・ロジャースの多くの映画に登場し、その結果、ボブ・ウィリスも、特に、ウィリス・ポイントというカリフォルニア州サクラメントの近くに建設した、レストラン/ダンス・ホール/観光牧場の複合施設に移った後は映画を作った。ウェスタン・スイングそれ自体は、発祥地(テキサス州、オクラホマ州、1930年代のダスト・ボウル移民後はカリフォルニア州)以外で、大きなジャンルになることは決してなかったが、時折カントリーチャートでヒットし、少なくとも1950年代までは続いた。