彼らは結局、その日と翌日に6曲レコーディングした。8月4日、ピアーRalph Peerがミシシッピで会った歌手――その歌手はHCスパイア H.C. Speirが不採用にしていた――がレコーディングした。
その歌手はジミー・ロジャースJimmie Rodgersで、自分のグループのザ・テネバ・ランブラーズthe Tenneva Ramblersと一緒に町に来たのだが、何かが起きて――なにかは誰にもわからない――、そのグループ抜きでレコーディングし、そのグループはその日の遅く別のミュージシャンと一緒にレコーディングした。
1927年にブリストル・セッションBristol sessionsで発掘されたのは、カーター・ファミリーThe Carter Familyとジミー・ロジャースJimmie Rodgersだけではなかった――それ以外にエク・ダンフォードEck Dunfordとブラインド・アルフレッド・リードBlind Alfred Reedもいた――が、彼らはずば抜けて重要だった。
カーター・ファミリーはほとんど一夜にして成功したし、ジムはビクターVictorもう一回セッションをして、最初の「ブルー・ヨーデルスBlue Yodels」を制作した結果、スターダムにのし上がった。
これら二つのアーティストがビクターに大金をもたらした結果、ビクターはテネシー州ナッシュビルに地域事務所を開所することを決断し、そこが、1925年に始まって成功したローカル・ラジオ番組グランド・オル・オープリーGrand Ole Opriyの母体となったのだ。
ナッシュビルはかつて保険と聖書の印刷で名をはせたが、カントリー・ミュージックとレコード会社のカントリー・ミュージック部門がそれ以降たくさん集中したという考えを、それ以来、少なくとも1980年代までナッシュビルの権力者層は嫌がっていた。
ビクターは1928年にもブリストルでやってみたし、他のレーベルも同様の集団オーディションを実施した――1928年、29年にテネシー州ジョンソン・シティでコロンビア・レコードColumbia Recordsが行ったのが最も有名だ――が、1927年のセッションをカントリー・ミュージックの「ビッグ・バンBig Bang」と称したのは、ブリストルのレコーディングを完全にすべて集めて行ったのだから、全く正しい。カーター・ファミリーthe Carter Familyは、ACカーター A. C. Caterが書いた曲と、商業化する目的で歌詞を書き直したり詩を付け加えたりしたして見栄えを良くしたフォーク・ソングを混ぜた。芸歴の後半では、ある黒人運転手を雇ってツアーでいろいろ移動してもらい、カーター・ファミリーのために歌の収集に行ったことが分かっている。ロジャースJimmie Rodgersに関しては、ポップの伝統にしっかり則っていはいたが、病気がちだった幼いころ、父親が働いていた鉄道駅構内のあたりをうろうろしているときに聞いていた黒人音楽に影響を受けたことによって、自分のレコードに「ブルー・ヨーデルblue yodel」とハワイアン・スチール・ギターを使った。二組とも、作曲し、著作権を保護しながら、ポップ・アーティストとしての意識を持っていたので、「ヒルビリーHillbilly」の分野としては稀有な存在だった。もちろん、以前は存在しなかった音楽分野を発明していたので、思った通り自由に実験していて、特にロジャースは、より保守的なカーター・ファミリーと一緒にレコーディングしたり、ビクターで大成功しているルイ・アームストロングとレコード両面でカップルを組んだりする自由があった。