ウィリアムスJ. Mayo “Ink” Williamsはブルースが好きですらなかった――クラシックの方が好きだった――が、自分の仲間の遺産の一部と考えた。
このため、ボードビルの舞台で演奏するものに加えてブルースを受け入れるようになり、ダラスにいるパラマウントの販売業者が、たくさんの観客をひきつけているストリート・パフォーマーに注意を怠るなとウィリアムスに言い、ウィリアムスはその販売業者を呼びにやった。それは賢明な投資で、ブラインド・レモン・ジェファーソンBlind Lemon Jeffersonは並外れた人気があり、1929年にシカゴで謎の死をとげるまでに、パラマウントで100曲近くレコーディングした。
彼の曲でクラシックになったものもあり、「マッチボックス・ブルースMatchbox Blues」は、カール・パーキンスとビートルズが録音している。
それだけでは彼の不朽の名声を主張するには十分でないかの如く、ジェファーソンが道を歩くときにガイドするために雇った少年たち「リード・ボーイズ」の中に、アーロンTボーン・ウォーカーAaron ”T-Bone” Walkerとジョシュア・ホワイトJoshua Whiteがいた。
ジェファーソンが成功したことで、ギターを奏でる田舎風気質のブルース演奏者のための扉を開いた。確かなことは何もわからないギターの名手のブラインド・アーサー・ブレークBlind Arthur Blakeは、パラマウントで80曲近くレコーディングしたが、ジャズやラグタイムの要素を色濃く持ったギター・スタイルを守り、出現したと同様に謎のまま消えて行った。
ウィリアムが本当に幸運に恵まれたのはHCスパイア H.C.Speirと関係を持てたことで、スパイアはミシシッピ州の黒人街にお店を構える白人で、周辺地域には音楽の才能あふれる黒人がたくさんいることに注目していた。
その黒人たちはお店に来て蓄音機とレコードも買っていった。スパイアの革新的なところは、録音機械を買い、録音してそれをレコード会社に送りたい人のデモを作ったところで、もしそのアーティストに興味があれば、スパイアに仲介手数料を支払った。スパイアは決してパラマウントだけと取り引きしていたのではなかった――演奏者をビクターやデッカに送り込み、そして最も有名なのは、後になって、ロバート・ジョンソンRobert Johnsonを、結局はコロンビアColumbia recordsに吸収されたアメリカン・レコーディング・カンパニーAmerican Recording Companyに結び付けた――が、なぜか1927年にパラマウントを去るまで、ウィリアムスで大もうけした。
パラマウント・レーベルParamount recordsはスパイアが見つけだしたたくさんの人達に、ウィスコンシンに来るための鉄道切符を送り始め、スパイアももう少し商業的価値のないアーティストたちをパラマウントに送り込んだ。
そこには、チャーリー・パットンCharley Pattonもいて、チャーリーは歌手とブルースを結びつける懸け橋となるとともに、ロバート・ジョンソンRobert Johnson、ローバック・ステープルスRoebuck Staples、チェスター・バーネットChester Burnett、ニーアマイア・スキップ・ジェームスNehemiah “Skip” Jamesなどすべての人にとって素晴らしい相談相手となった。
ニーアマイアは、パラマウントが1931年のレコードを宣伝せず、その年の遅く入信したことによって、苦しい歌手人生だった。スパイアは、ウィリアムス・パットン友人でライバルでもあるソン・ハウスSon House、謎のキング・ソロモン・ヒルKing Solomon Hill、イシュマン・ブレーシーIshman Bracey、ギーチー・ワイリー・アンド・エルビー・トーマスGeechie Wiley and Elvie Thomas、をパラマウントのスタディオに送り込んだが、彼らが何者であるかは21世紀まで確認されることはなく、30年後に意図したのとは全く異なる聴衆によって再発見された。
このようなギターを用いたカントリー・ブルースは華々しく売れたのではなく、トミー・ジョンソンTommy Johnsonやピアノとギターのデュオのスクラッパー・ブラックウェルとリロイ・カーScrapper Blackwell and Leroy Carrは、レコード会社が投資して良かったと思ってもらい、パットンCharley Pattonなどほかのアーティストは、ライブ演奏で人気があり更にセッションを催すために帰ってきてほしいという狭い地域ではとてもよく売れた。
ユーモラスな曲を演奏するホーカムHokum Bluesやジャグ・バンドjug bandも、ミシシッピ・シークスMississippi Sheiksやメンフィス・ジャグ・バンドthe Memphis Jug Bandが良く売れ、そして、キャノンズ・ジャグ・ストンパーズCannon’s Jug Stompersは目覚ましい売れ行きだったが、住んでいたメンフィスで白人に人気があったのが一因だった。
レコード会社は本質的に昔からあるものを取り込んで、録音したものが売れるかどうかを見るのだ。パラマウントは初期黒人音楽のレース・ミュージック・マーケットに参入した唯一の会社では決してありませんでした。