英米では深いところで共通点もあったが、イギリスで起きていたことはかなり違っていた。イギリスは戦争から脱却しても、食糧配給が続いていたが、ついに1955年に終わった。中流階級で生活していたジョン・レノンJohn Lennonやポール・マッカートニーPaul McCartneyなどのティーネージャーは、生活が突然改善したことを目の当たりにして、自分たちは貧しさの中で育ってきたが、将来はその貧しさが突然なくなった世代が現れたという心理的な影響が発生した。
この世代の子供たちは、キャバーンCavernのランチタイム・セッションや、クローダディーthe Crawdaddy クラブにおけるサンデーR&B the Sunday R&Bのクラブ・ナイトに来ていた。
彼らは、イギリスの伝統や古い世代が押し付けた製薬の下でイライラしていたが、新しい経済回復によってイギリス社会にもっとおおっぴらに参加することが許されるようになった。バンドに参加する若者の話に合ったように、教育を受けるか、見習いか、あるいは、仕事の中でトレーニング・プログラムに署名することが必須だ。上流階級の者は誰もバンドに入らない(ミック・ジャガーMick Jaggerは、体育教師の息子でロンドンスクール・オブ・エコノミクスLondon School of Economicsの学生だったので、上流階級に近かった)ので、バンドに入ると商取引を学んだり(ジョージ・ハリソンGeroge Harrisonや、断続的にポール・マッカートニーがそうだった)、広告代理店で芸術学校の学位を使うことになる(チャーリー・ワッツCharlie Watts、ビル・ワイマンBill Wyman)。
よほど変わった人でないと、ひとりでやることはない。ブライアン・ジョーンズBrian Jonesはこの点で目立っていて、変質的な愛情をブルースとR&Bに捧げ、見習いになったり学術的なものを求める意図のない中流階級の子供だった。
このため、イギリスのイベントは、最初アメリカで無視されていたが、やはり同様に無視されていたアメリカと同じくらい重要だった。大人たちは、一部に若者もいたが、門外漢でわけのわからないたくさんのフーテナニーやサーフ文化のコンサートを売り込む方法を考え出そうとしていた。たとえジョーン・バエズJoan Baezがツアーで10万ドルの興行収入をあげることができて、アイオワ・シティやフェニックスで小さな女の子たちが稼いだとしても、ジョーンに最も近いボブ・ディランBob Dylanをいったいどうやって売り込むのか?
内陸のデイトンにいる子たちに、どうやってサーフィンを売れるのか?
そこでイギリス人は陽気な方法にした。ジョージ・マーティンGeorge Martinはビートルズのアルバムを欲しくなり、2月に9時間45分のセッションでレコーディングして作り上げた。
9トラックしかできなかったが、マーティンは10曲欲しかったので、最後にジョン・レノンが、一日歌って声がズタズタになっていたが「トゥイスト・アンド・シャウトTwist and Shout」を一発で録音した。
アルバムのプリーズ・プリーズ・ミーPlease Please Meは大急ぎでリリースされ、4月11日にアルバム・チャートの1位になり、同様に新しいシングル「フロム・ミー・トゥ・ユーFrom Me to You」(タイトルはNMEのレター・コラム「フロム・ユー・トゥ・アスFrom You To Us」から思いついた。)がシングル・チャートの1位になり、別々にリリースした11曲が連続して1位になったという、前例のない連続1位の1番目の曲になった。
ビートルズは常にツアーをし、ポップ・ゴー・ザ・ビートルズPop Go the Beatlesというラジオ番組シリーズの契約をBBCとし、8月にはキャバーンthe Cavernでの最後の登場になったのだが、それはあまりに大物になり過ぎたからだ。
(アメリカ本土で「フロム・ミー・トゥ・ユーFrom Me to You」をリリースしたビー・ジェイ・レコードVee-Jay Recordsにとっては予想通り関心がなく、当時、この会社は大変革時に有り、というのは、長い間会長だったエワート・アブナーEwart Abnerが退陣する中で、フォーシーズンスFour Seasonsが思いがけず人気が出て、注文対応に大わらわだった。)