それとは別に、彼らは近くから来たのだが、キース・リチャーズKeith Richardsはシドカップの芸術学校で一日過ごそうとして、郊外にあるダートフォードの鉄道の駅で、チャック・ベリーChuck Berryのワン・ダズン・ベリーズOne Dozen Berrysなどたくさんのアルバムを脇に抱えた子を見つけた。
キースは、ロンドン経済学校London School of Economicsに出席するためにこの都市に向かってきたマイク・ジャガーMike Jaggerに声をかけ、次の20分間、キースが列車に乗らなければならなくなるまで、二人は音楽について話した。
その時までに、ジャガーの収集したレコードを見るために、二人がジャガーの家で会うことに合意したが、ジャガーは裕福なので通信販売でアメリカから取り寄せたのだった。二人にはディック・テーラーDick Taylorという共通の友人がいることが分かったが、ディックはキースと同じようにレコードの楽曲をギターで演奏しようとしていた。
1961年に秋までに、彼らはリトル・ボーイ・ブルーとブルー・ボーイズLittle Boy Blue and the Blue Boys というへぼなバンドを結成した。
同時に、彼らは誰かの居間でチャック・ベリーの曲をたくさんと、エルビスの曲と、「ラバンバLa Bamba」を中心にしてテープに録音した。
彼らは郊外における唯一のブルース・グループではなく、オックスフォードに住むポール・ポンドPaul Pondはサンダー・オディンズ・ビッグ・シークレットSthunder Odin’s Big Secretというバンドを率いていた。
チェルトナムのブルース・ファンのエルモ・ジョーンズElmo Jones(ちなみに、本名はブライアン)はポンドを探し出し、すぐに、一緒に演奏した。二人もテープを作り、素晴らしいと思った。ブライアンはポンドを招待して自分の率いる(実在しない)バンドに参加させた。ポンドも、バンドを持っていて、自分はそのリーダーだと答えたが、二人は友人のままだった。それでもブライアンは自分のバンドが欲しかったので、1962年初めロンドンに移って、真剣に取り組んだ。ジャズ・ニュースJazz News5月2日号に彼が出したのは、「リズム・アンドブルース:ギタリスト、ボーカリストでR&Bバンドを結成する。ハーモニカかテナー・サックス、またはその両方、ピアノ、ベース、ドラムスが必要。練習熱心なこと。興味深い仕事が多数ある。」ブライアンは、すぐにブルースに堪能なピアニストのイアン・ストゥワートIan Stewartから連絡を受けた。
レスター・スクエアのホワイト・ベア・パブWhite Bear pubで練習が始まったが、ブライアンがたばこを盗み続けたのでそこから放り出された。
アレクシス・コーナーAlexis Kornerは練習のために、ジェフ・ブッドフォードGeoff Bradfordを送り込んだが、頑固なブルースの純粋主義者で、そしてその後6月にジャガーが現れ、翌週にはディック・テーラーDick Taylorとキース・リチャードKeith Richardsを連れてきた。
この時点で、チャック・ベリーChuck Berryやボ・ディドリーBo Diddleyを演奏してくれと頼まれて、ブラッドフォードは練習に来るのをやめた。
これで面白くなってきた。リバプールに話を戻して、ビートルズは6月9日、キャバーンで帰還ショーで盛大に演奏し、6月11日、マンチェスターに戻ってBBCに登場する別のテープ撮りをして、15日に放映した。
ちょうどそのころジョージ・マーティンGeorge Martinがブライアンに手紙を書いて、ピートPete Bestは不要と伝えた。ブライアンBrian Epsteinは、他のビートルズメンバーが同意すると思ったが、署名した同意書があって、署名者の一人の契約を終了させる方法が分からなかった。
彼らがこの件を検討している間に、モナ・ベストMona Bestが自分のクラブのカスバthe Casbahを閉店すると発表し、ビートルズが最後に演奏して閉じた。
ブライアンはマンチェスターへグラナダ・テレビGranada Televisionと打ち合わせに行ったが、ここは今でもBBCとともに現存する民間のネットワークで、この地域で運営していることに誇りを持っている。ビートルズをテレビ出演させる件を相談し、その結果、プロデューサーがキャバーンまでビートルズを見にやってくることになった。ブライアンもビートルズが使えるようにちゃんとしたワゴンを買ったが、ピートを首にしたときにニールNeil Aspinallが残るかどうかをすでに心配していた。