それはビートルズも同様だった。4月10日にはジョージ(三日はしかの症状が出たので欠席した)以外のメンバーがハンブルグに飛び、そこでマンフレッド・ワイスレダーManfred Weisslederがステーキをご馳走し、クラブを案内した。
そこはとても感動的で、古い映画館だが、巨大なステージがあり、優れたサウンド・システム、バルコニー席、そして最も重要なのは、バンドのためのゲスト用区画があって、バスタブとシャワーの付いた真新しいバスルームがあったのだ。わあ、ストゥはこれを見るべきだ!もちろん、アスリッドAstridとその母親と一緒に泊まるのが良い。
というより、実際に泊まっていて、ビートルズがハンブルグに到着した当日に、普段から頭痛持ちのストゥは正午ごろに特にひどくなり、ひきつけを起こした。
アストリッドの母親は救急車と、そのあとにアストリッドに電話し、4時40分に救急車の中でアストリッドに抱きかかえられながら、ストゥ・サトクリフは亡くなった。翌日ビートルズはそれを知り、ワイスレダーは自分の車を貸して、ブライアンとジョージを空港で乗せた。彼らが着くと、そこにはクラウスKlausとアストリッドAstridがいて、アストリッドが連絡したのだった。
ストゥの母親、ミリー・サトクリフMillie Sutcliffeは、ブライアンやジョージとともに飛行機に乗り、息子の遺体を引き取りに来たのだ。
葬儀は4月19日に執り行われ、クラウスとアストリッドは出席のために飛行機で来た。ささやかな葬儀だった。ビートルズの代わりに、ジョンのガールフレンドのシンシアCynthiaとジョージの母親が来席し、ビートルズは演奏を続けた。
アストリッドは、お前がストゥアートを殺したとミリーが責めるまではミリーといたが、そのあとはアランとベリル・ウィリアムスAllan and Beryl Wiiliamsの家に泊まった。
ジョンは深いうつ状態に陥ったが、しなければいけない仕事があったので、仕事に取り組んだ。ブライアンは初日の報告をタイプしファンクラブに送り、マージー・ビートMersey Beat誌にも写しを送ったが、そこではストゥワートのことに触れず、ビートルズが6月9日にキャバーンで演奏すると書いた。
ロンドンではEMIでスキャンダルが起きた。一般大衆が関心を抱くことではなかったが、会社内で対応が求められることだった。ジョージ・マーティンGeorge Martinが妻と別れ、長い間秘書を務めて、何年も不倫関係にあったジュディ・ロックハート・スミスJudy Lockhart Smithと同棲したのだ。
マーティンの、A&RとパーロフォンParlophoneのプロデューサーとしての契約を更新するかを決める時期で、彼が目覚ましい活躍をしていて、特にコメディ・レコードはすばらしかったし、映画のサウンドトラックと主種雑多なポップ・レコードも良かったので、更新になりそうだった。
マーティンは自分のプロデュースしたレコードの印税を要求したが、EMIはきっぱりと断った。スキャンダルに怒ったEMIは、契約を更新したものの、条項を追加した。それは、シド・コールマンSid Colman出版本部長とキム・ベネットKim Bennettソング・プラガーが、長々としゃべったビートルズのことだろうか?
マーティンはビートルズを嫌いだったのか?実は、EMIは契約書を用意していた。5月9日、ブライアンBrian Epsteinはロンドンに行ってジョージ・マーティンGeorge Martinと話した。
二人は腰を据えて提案された内容を検討したが、それはEMIがどの新人アーティストにも出す提携の契約書と同じもので、1年目は6組で分け、EMIはスタディオの時間に対してお金を支払い、前払金はなく、契約は4年間有効だが毎年更新のオプションがあり、権利は全世界に対する、という内容だ。最初のレコーディング・セッションは6月6日となり、二人は握手した。興奮したブライアンは近くの郵便局に行き、電報を打ったが、一通はビル・ハリーBill Harry宛てでマージー・ビートにニュースを載せるためで、もう一通はビートル宛てで、「おめでとう、みんな。EMIからレコーディング・セッションの要請が来た。新曲の練習をしてくれ」だった。
その返信の電報は、「いつ百万長者になれるんだ(ジョン)、一万ポンドの印税を先に送金してくれ(ポール)、新品のギターを4台発注してくれ(ジョージ)」だった。なんてひょうきん者なんだ!もしかすると、クリフ・リチャードなら1万ドルの印税をもらえるかもしれないが、北イングランドのビート・グループじゃあ無理だ。このニュースに目がくらんだポールとジョンは、「新曲を練習しろ」というのを「新曲を書け」と読み間違えて、新曲づくりに取りかかった。