次のビートルズの課題は「レコーディング・テスト」、つまり1月1日にロンドンのデッカDeccaで実施される、録音するセッションだった。
これはオーディションではなく、マイク・スミスMike Smithはキャバーンで彼らを見て、その有能さに着目したが、今度はスタディオで持ちこたえられるかどうかを見る必要があった。
ビートルズはざっと15曲演奏したが、そこには、チャック・ベリーChuck Berry(メンフィスMemphis)、ショーの楽曲(ティル・ゼア・ワズ・ユーTil There Was You)、ダサくて年寄りの好きな曲(べサメ・ムーチョBesame Mucho)、そしてレノン・マッカートニーLennon-McCartneyの楽曲3曲(ラブ・オブ・ザ・ラブLove of the Loveなど)もあった。
ジョン・レノンJohn Lennonは後にこの時に録音したテープを、「ひでえ」と評した。スミスはビートルズにお礼を言い、デッカはいろいろと手間取るから、何らかの決定が出るまで少なくとも3週間かかるだろうと言った。リバプールに戻ってくると、最新号のマージー・ビートMersey Beatの見出しに、『ビートルズ人気投票第1位』とあった。
競争相手を打ち負かし、紙面にメンバーの名前を正しく綴っていた。(それでもポールはダメで、今度はMcartreyとなっていた。)翌日、ポリグラムPolygramは「マイ・ボニーMy Bonnie」をリリースしたが、業界紙、ファンの論評ともに良かったが、かすりもしなかった。
ブライアンはお店用に大量のレコードを注文したが、そのレコードを欲しがるリバプールの大体の人は、最初に入ってきたとき、ドイツでプレスした盤を買うので、ブライアンの注文したものは売れずに奥に置いたままになった。まあ、小売業ってのはそんなもんだ。ブライアンは弁護士達の用意したマネージメント契約書をまだ持っていた、1月24日、彼らは署名して(というより、署名した者もいたが、ブライアンがなぜか署名しなかった)、ブライアンを1967年までマネージャーに指名した。
ブライアンは15%を受け取ることになった。次に遂行すべき仕事は、BBCのラジオ演奏オーディションに申し込むことで、その申込書はマンチェスターの地域事務所に送られ、その返信を受け取り、2月8日に出演することになった。
ブライアンがデッカとの昼食にロンドンへ呼ばれ、物事は順調に進んだ。
しかし、ブライアンが考えたり望んだものではなかった。彼の自伝によると、A&R部門長のディック・ローDick Roweは、「率直に言って、エプスタインさん、私たちはあなたのグループのサウンドは好きでない。ギタリストのグループは廃れかけれている。」
別の幹部が言った。「この子たちは売れないよ、エプスタインさん。私たちはわかるんだ。あなたはリバプールで良いレコードビジネスをしているんだから、それに専念した方が良い。」ローは後になって、この引用発言は自分のものでないと異論を唱えたが、イギリスで「ギター・グループ」と言えばシャドーズthe Shadowsしかいなかったのだからなおさらだ。
シャドーズはよくやっていた。本当に。本当の理由は、デッカはビートルズともう一つのグループのブライアン・プールとトレミロズBraian Poole and the Tremilosのどちらかを選ぼうとしていて、ローはマイク・スミスに後者を選ぶように圧力をかけていたのだが、その理由は、グループ自身のレコードをレコーディングするだけでなく、歌手がロックのバックを必要としたときのために、ハウス・バンドとして手元に置いておくためだった。
ブライアンは、怒ってこっそり帰宅した。少なくともBBCは関心を持ったので、ビートルズはマンチェスターに向かい、そこで自分たちの能力の程度を示し、放送してもらえることになって(少なくともビートルズには「ロックっぽい」というのではなく、「音楽を演奏しようという意図があった。」とオーディションをした人が言っている)、翌日全国放送する番組を録音する日付を3月7日と伝えられた。