しかし、それでもビートルズにはまだ問題があった。一つには、ウィリアムスAllan Williamsはメンバーの報酬から上前をはね、エクホルンPeter Eckhornも支払から所得税とドイツ教会税(国が課す十分の一税)を差し引いていたのだがドイツ市民でないので違法だった。
これにビートルズは怒った。それは、ビートルズがトップ・テンthe Top Tenで演奏するためにエクホルンEckhornから招待を受けたのであるが、あたかもウィリアムスが招待したかのように、ウィリアムスに支払っているからだ。
ビートルズはドイツの税の件でも怒ったのだが、エクホルンはすぐに引っ込めた。しかし、ビートルズが対処しなければいけないもっと深刻な問題があった。トニー・シェリダンが見たように、「ピートPete Bestはへたくそなドラマーだ。能力がないだけじゃなくて、手と足がばらばらだ。」
リバプールでは、ピートが必要な感じだったし、どうしても彼の家に装置をしまっておく必要があり、それに、ベストさんに応援してもらわなければならなかったが、ハンブルグではピートの出番はない。
いずれにせよ、7月初めまで契約をすぐに延長したので、彼らはしばらくの間ピートをどうすることもできなかった。
しかし、グループに長いこといられなかったビートルズのメンバーはストゥで、演奏の仕事を辞退し始め、ポールをピアノから引き離して、ポールがやりたくないベースを演奏させたのだった。
しかし、ストゥStuart Sutcliffeはハンブルグ芸術学校に申し込み、アストリッドと結婚する計画は前進していて、最終的にストゥはビートルズのメンバーより画家になりたいと感じた。このさなかの6月22日、彼らはレコーディング・セッションを行った。ドイツの大手企業のポリドール・レコードPolydor Recordsが、トニー・シェリダンTony Sheridanに賭けてみることを決め、スタッフ・プロデューサーのベルト・ケンプフェルトBert Kaempfertはみんなを8時に集合(結局は、仕事が終わった後になった)させて数曲録音した。
トニーは「マイボニーMy Bonnie Lies Over the Ocean」を熱心に何回か演奏し、1920年代にさかのぼる曲の「いい娘じゃないかAin’t She Sweet」と「ビートル・バップBeatle Bop」というインストゥルメンタルの2曲をビートルズはトニー抜きで録音することを許された。
これらの曲はアメリカでシングル盤としてリリースされると言われた。しかし、セッションの明確な焦点はトニー・シェリダンTony Sheridanだった。サウンドはそれほど良くなかったのだが、ピートが使わなくてはいけないドラムを少なくした方が良いと考えたエンジニアが、バス・ドラムとトムを外したことと、ビートルズ全員が全曲を演奏したのではなく(ストゥはそこにいたが単なる傍観者だった)、実際にレコードができた時、ポリドール――彼らの署名した契約書の条文で思い起こしたように――はこのバンドをビート・ブラザースthe Beat Brothersだと認識したのだ。
7月1日、ビートルズthe Beatlesは訪問中のトップ・テンthe Top Tenで最後のショーを演奏した。ストゥは正式にグループを離脱し、クラウス・フォアマンKlaus Voormannがベースとして参加できるかと尋ねた――クラウスはストゥのベースをもらっていた――が、ジョンはクラウスに、その仕事はすでにポールが引き受けたと言った。
彼らは、ペーター・エクホルンPeter Eckhornに、リバプールまではるばる戻りたくはないが、戻ると伝えた。
ビートルズは7月3日帰国し、間もなくリバプールに独自の音楽雑誌ができた。マージー・ビート誌Mersey Beatは、ビートルズの友人の一人のビル・ハリーBill Harryが創作し、リバプールに突然生まれた音楽タレントの動きを記録し始めた。
創刊号はジョン・レノンの「ビートルズの怪しげな起源」の記事で、もしそれがうまくいったら、将来の号の穴埋め用にハリーと一緒に物語や詩をたくさん残した。ハリーは出資を必要としていて、ブライアン・エプスタインBrian Epsteinに近づいたが、エプスタインは断り、キャバーンのオーナーのレイ・マクフォールRay McFallが主要出資者になった。
しかし、エプスタインは、ビートルズも含め、レコードを買いに来る10代のためにネムズNemsに確実に送付るようにした。