いやあ、そこまではいかなかった。彼ら――ウィリアムスAllan Williams、その妻、その兄弟のバリー・チャングBarry Chang、ロード・ウッドバインLord Woodbine、そして5人のビートルズ―はロンドンに止まって、別の乗客を乗せたが、それはコシュミダーKoschmiderが仕事を与えたスタイナーSteinerという名前のバイリンガルのウェイターと思われる。
ロンドンからハリッジへ、、フェリーでオランダのフークヘ、そこから彼らは出発した。コシュミダーの事務所で、職務を教えられされた。火曜から金曜までは、4時間半、午後8時から午前2時まで。土曜は6時間、午後7時から午前3時まで日曜は6時間、午後5時から午前1時半まで。30分の休憩はバラバラととり、持ち時間を埋めるだけの十分な演目を持っているのは当然と思われていた。ここにサインしてください、ここにも。ああ、ここにもだ。彼らはここにいるという警察への届出だ。はっきりしているのは就労許可がないことだが、少年たちはそのことを何も知らなかった。ウィリアムスもイギリスのバンドに関するコシュミダーの独占的派遣元であるという書類に署名したのだが、既にほかにデリーとシニアーズDerry and the Seniorsというバンドがいて、ハンブルグのカイザーケラーKaiserkellerにリバプールから別のバンドが来るのは決して快く思ってなかった。
寝る場所として、道を挟んでインドラthe Indraの向かい側にある映画館のバンビthe Bambiの裏に狭い部屋がいくつかあった。
1960年8月17日、ドイツによるリバプール爆撃20周年記念日に、ビートルズはステージに立った。
ビートルズは全員ティーネージャーだったので丈夫で、とにかく、観客はロックンロールについてあまりよく知らず、酔っぱらうためにバーに来る者がほとんどだった。しかしビートルズは演奏がうまくなって、ある時、デリーとシニアーズDerry and the Seniorsの一人がビートルズを馬鹿にするために、ちょっと立ち寄ったところ、非常に短時間に本当に上手くなったと認めた。
しかし問題があった。インドラの上に住んでいる老女が、ビートルズの出す騒音に抗議したのだ。この件は最終的に裁判沙汰になり、コシュミダーKoschniderはインドラでの音楽をやめる命令を下され、ビートルズ(とウィリアウムス)に契約を延長し、デリーとシニアーズは契約終了時に帰国させると言い、10月4日からカイザーケラーthe Kaiserkellerで、ローリーとハリケーンズRory and the Hurricanesと交互に舞台で演奏すると告げた。
二つのバンドはしのぎを削ってお互いにけしかけ、聴衆は得をした。その後10月後半のある晩、画学生がガールフレンドと言い争いになり、ハンブルグ港のそばを、長いこと不機嫌になって歩いた。家に帰るとき、グロサー・フレイハイトを横切ってカイザーケラーのそばを通ると、ライブのロックンロールが聞こえたが、それは初めて聞く音楽だった。思い切って入り―ここは学生のたまり場ではなかった―ロリーとハリケーンズRory and the Hurricanes’ のバトリンButlinの完成された舞台演奏、おどけたしぐさ、振り付けに驚いた。しかし彼らの舞台が終わり、しばらく座っていたが、別のグループが来て、クラウス・フォアマンKlaus Voormanの世界は永遠に変わった。
見たものによって完全に狼狽して、ハリケーンズの演奏のあと店を出て、ガールフレンドの家に戻って起こし、「これを見なきゃ」といった。翌日、クラウスKraus、アストリッド・キルヒャーAstrid Kirchherr、友人のユルゲン・フォルマーJurgen Vollmerがカイザーケラーに行って、クラウスが絶賛したものを見た。
彼らは聴衆を恐れて隅に座り、どの曲も称賛して、休憩中に恥ずかしがりながらも、バンドに近づき―誰一人としてあまり英語がうまくなく、特にアストリッドは全くダメだった―、メンバーに話してみた。3人は押されてストゥのそばに行ったり離れたりして、ストゥStuは3人と好意的におしゃべりし、ちょっと驚いたことに、金髪美人のアストリッドが写真を撮りたいというと、ポーズをとることに同意してくれた。
もちろんストゥはしてくれたのだが、最初善意と思ったものの、運命だということがはっきりした後は、重要なこととして受け止めるようになった。
次に起こったことは、コシュミダーがビートルズに30日前の退去通知を言い渡しのだが、その前に、ハー・ハリソンHerr Harrisonはわずか17歳で終了許可の資格がないことを警察が発見しという通知があったと言った。もちろん、コシュミダーは彼らの就労許可を取っていないのだから、警察からの通知というのはありそうになく、コシュミダーはたぶんウィリアムスとの激しい口論の末の動きだったのだろう。ウィリアムスはリバプール出身のジェリーとペースメーカーズGerry and the Pace makersを、憎きライバルのペーター・エクホルンPeter Echhornのトップ・テン・クラブTop Ten Clubに出演予約した。
これは契約違反であり、すぐにウィリアムスは無効であるとの通告を出した。一方、ビートルズはトップ・テンthe Top Tenまで行って、ラリー・パーンズLarry Parnesのかつての顧客であるトニー・シェリダンTony Sheridanに会ったが、トニーはハンブルクに惹かれていてファンも多く、1961年4月にクラブで演奏するという契約をエクホルンEchhornと結んでいた。
コシュミダーは彼らを首にしたので、バンビの悲惨な部屋の壁にコンドームを画びょうで留めて火をつけた。被害はなかったが、警察はポール、ピート、ジョンを逮捕し、ストゥはアストリッド(ストゥは婚約したばかりだった)と一緒に自首した。告発はなかったが、ポール、ピート、は空港で手錠をかけられたまま国外退去となり、30日以内に訴えがなければ、ドイツから追放となった。ジョージはすでに国外に退去してオランダのフークにいた。ジョンは、ただ一人合法的に滞在していたストゥと一緒にさらに数日間うろついていた。こりゃ、大変だ。早くまた演奏したかった。