ロックンロールの歴史 イギリスⅡー7

その後まもなくポールPaul McCartneyは町の楽器屋に行き、父親が買ってくれたトランペットを下取りに出してギターと交換した。

Pin by Beverly Marsh on Beatles | Beatles christmas, The beatles, Paul mccartney

ジム・マッカートニーJim McCartneyは、プロの音楽演奏家だったので、ポールが欲しかったのはギターだっと分かって怒らなかった。

Paul McCartney and his father, Jim McCartney. | Paul mccartney, Paul and linda mccartney, Beatles love

学校が終わるとすぐに、クォリー・メンthe Quarry Menはキャバーンthe Cavernのスキッフル・コンテストの出場資格を得たと知ったが、そこはリバプール・ドックの野菜倉庫だった場所にあるコーヒー・バーでじめじめして、匂いが良く立ち込めたが、子供達にはたいそう人気のあった場所だった。

Cavern Club レーベル | リリース | DiscogsDid the Beatles Make the Cavern or Did the Cavern Make the Beatles? | by Spencer Leigh | Cuepoint | Medium

クォリー・メンはその夜勝てず、ポール・マッカートニーは、兄弟のマイクMike McCartneyと、クォリー・メンの別の8月公演のために、ボーイ・スカウト・キャンプへと出発した。

Paul McCartney's Brother Michael Was The Beatles' First Drummer

秋になると学校が始まり、レノンは芸術大学に入り、マッカートニーはまだ高校にいてジョージ・ハリソンGeorge Harrisonと一緒にうろついていた。

Kathleen on Twitter: "John Lennon, Cynthia Lennon, John Hague and tony Carricker near to Liverpool College of Art, Liverpool 1959 https://t.co/DnwIZHJ2mK" / Twitterリヴァプール・カレッジ・オブ・アート - Wikipedia

マッカートニーはコンサートはほとんどなかったが、まだクォリー・メンの一員で、ますますレノンとうろついていて、それが父親ジム・マッカートニーの気に入らなかった。「レノンは、お前を面倒にまきこ組むことになるよ、なあ。」とポールに警告した。それだけでなく、レノンは若いジョージ・ハリソンも面倒に巻き込み、ポールは1958年の初めのクォリー・メン・コンサートにジョージを誘った。ポスターのもう一つのグループはエディ・クレイトン・スキッフル・グループEddie Clayton Skiffle Groupで、そのドラマーはリッキー・スターキーRicky Starkeyという若者だった。

The Eddie Clayton Skiffle Group - Mersey BeatAesthetic Beatles — young Ringo Starr <3

スターキーは激しい若きドラマーで、地元のスキッフルバンドと一緒に演奏して、多くのコンサートをこなし、クォリー・メンとは別格の存在だった。レノンはハリソンを知るようになり、マッカートニーのような若い子と一緒に演奏することに当惑していたが、ハリソンはマッカートニーよりも若く、さらに上手な演奏者(しかも3人の中で唯一現実にプロレベルのギターを持っていた)だから手に入れる価値があったのは明らかだった。1958年のある時点で、ハリソンはバンドに加わった。仕事がたくさんあったわけではなく、キャバーンで何とか出演予約したものの、スキッフル・ショーと宣伝されたコンサートでロックンロールは演奏を禁止された。ジョンとポールはジョージの家でジョージと一緒に繰り返し演奏することで我慢したが、それはハリソンの母親の勧めだった。そして、ジョンとポールは、個々に、そして二人で曲を作った。いつかの時点で彼らはお金をためてレコードを作ったのだが、片面はバディ・ホリーBuddy Hollyの「ザットル・ビー・ザ・デイThat’ll Be the Day」で、もう片面はポール・マッカートニーの作った「イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デインジャーIn Spite of All the Danger」だった。

歌詞和訳】That'll Be the Day - The Beatles |ザットル・ビー・ザ・デイ(その日はやってくる) - ビートルズ - エイカシ | 洋楽歌詞の和訳、英語の意味、読み方歌詞和訳】In Spite OF All The Danger - The Beatles |イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デンジャー(どんな危険があっても) - ビートルズ - エイカシ | 洋楽歌詞の和訳、英語の意味、読み方

レノンの母親のジュリアJuliaは子育てをできず(父親は数年前にいなくなった)、自由奔放な生活スタイルは10代の子供を育てるのには役が経たないので、レノンは母方の叔母のミミMimiおばさんと暮らしていたが、芸術大学の最終学年になっても将来の計画はなかった。

Julia Lennon - beatles-in-ashtray ページ!John and Mimi - Hey Dullblog, the Beatles fan blog

ミミは厳しかったが公平で、ちゃんとした仕事に就き、立派な家に住む独身女性で、レノンの世話を見ていたので、母親はよく訪ねてきた。ジュリアが訪ねてきて別れるときには、たいていバスに行く途中まで歩いて行ったが、7月15日に、ジョンの友達のニゲル・ウォリーNigel Walleyがジョンを探しに来て、ジュリアが代わりに一緒に歩いてきてと頼んだ。

John Lennon photographed in Liverpool, 1958

ウォリ―がジュリアと別れて家に戻ろうとした矢先、キーっというブレーキとドシンという音が聞こえたが、ジュリアは車にはねられて即死した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。