その後まもなくポールPaul McCartneyは町の楽器屋に行き、父親が買ってくれたトランペットを下取りに出してギターと交換した。
ジム・マッカートニーJim McCartneyは、プロの音楽演奏家だったので、ポールが欲しかったのはギターだっと分かって怒らなかった。
学校が終わるとすぐに、クォリー・メンthe Quarry Menはキャバーンthe Cavernのスキッフル・コンテストの出場資格を得たと知ったが、そこはリバプール・ドックの野菜倉庫だった場所にあるコーヒー・バーでじめじめして、匂いが良く立ち込めたが、子供達にはたいそう人気のあった場所だった。
クォリー・メンはその夜勝てず、ポール・マッカートニーは、兄弟のマイクMike McCartneyと、クォリー・メンの別の8月公演のために、ボーイ・スカウト・キャンプへと出発した。
秋になると学校が始まり、レノンは芸術大学に入り、マッカートニーはまだ高校にいてジョージ・ハリソンGeorge Harrisonと一緒にうろついていた。
マッカートニーはコンサートはほとんどなかったが、まだクォリー・メンの一員で、ますますレノンとうろついていて、それが父親ジム・マッカートニーの気に入らなかった。「レノンは、お前を面倒にまきこ組むことになるよ、なあ。」とポールに警告した。それだけでなく、レノンは若いジョージ・ハリソンも面倒に巻き込み、ポールは1958年の初めのクォリー・メン・コンサートにジョージを誘った。ポスターのもう一つのグループはエディ・クレイトン・スキッフル・グループEddie Clayton Skiffle Groupで、そのドラマーはリッキー・スターキーRicky Starkeyという若者だった。
スターキーは激しい若きドラマーで、地元のスキッフルバンドと一緒に演奏して、多くのコンサートをこなし、クォリー・メンとは別格の存在だった。レノンはハリソンを知るようになり、マッカートニーのような若い子と一緒に演奏することに当惑していたが、ハリソンはマッカートニーよりも若く、さらに上手な演奏者(しかも3人の中で唯一現実にプロレベルのギターを持っていた)だから手に入れる価値があったのは明らかだった。1958年のある時点で、ハリソンはバンドに加わった。仕事がたくさんあったわけではなく、キャバーンで何とか出演予約したものの、スキッフル・ショーと宣伝されたコンサートでロックンロールは演奏を禁止された。ジョンとポールはジョージの家でジョージと一緒に繰り返し演奏することで我慢したが、それはハリソンの母親の勧めだった。そして、ジョンとポールは、個々に、そして二人で曲を作った。いつかの時点で彼らはお金をためてレコードを作ったのだが、片面はバディ・ホリーBuddy Hollyの「ザットル・ビー・ザ・デイThat’ll Be the Day」で、もう片面はポール・マッカートニーの作った「イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デインジャーIn Spite of All the Danger」だった。
レノンの母親のジュリアJuliaは子育てをできず(父親は数年前にいなくなった)、自由奔放な生活スタイルは10代の子供を育てるのには役が経たないので、レノンは母方の叔母のミミMimiおばさんと暮らしていたが、芸術大学の最終学年になっても将来の計画はなかった。
ミミは厳しかったが公平で、ちゃんとした仕事に就き、立派な家に住む独身女性で、レノンの世話を見ていたので、母親はよく訪ねてきた。ジュリアが訪ねてきて別れるときには、たいていバスに行く途中まで歩いて行ったが、7月15日に、ジョンの友達のニゲル・ウォリーNigel Walleyがジョンを探しに来て、ジュリアが代わりに一緒に歩いてきてと頼んだ。
ウォリ―がジュリアと別れて家に戻ろうとした矢先、キーっというブレーキとドシンという音が聞こえたが、ジュリアは車にはねられて即死した。