1958年夏、バイパーズthe Vipersの解散で象徴されるように、ロンドンから完全にスキッフルが消滅した。
代わりに、誰もがロックンロール・シンガーになりたがったが、それはラリー・パーンズLarry Parnesがマネージした、ビンス・イーガーVince Eager、マーティー・ワイルドMarty Wilde、トニー・シェリダンTony Sheridan、トミー・スティールTommy Steeleという、この舞台にどんどん現れた若者たちが刺激したのだった。
パーンズの悪ふざけ――ワイルドもシェリダンも、いくつかの場面でパーンズが性的に言い寄るのを拒絶したと言っている――を我慢したくなかったのかもしれないが、スターを作る力量は尊敬していた。しかし、スキッフルは廃れたという言葉は、ロンドンから遠いところにまでは届かず、田舎の頭の古い10代はまだスキッフルに熱中していた。1957年7月6日、リバプール近郊のウールトンの教会催し物で、スキッフル・グループが演奏していた。クォリー・メンthe Quarry Menはほとんどがクォリー・バンク・ハイ・スクールQuarry Bank High Schoolの学生で、聴衆の中にミュージシャンにしかなりたくない子がいた。
ポール・マッカートニーPaul McCartneyはすでにトランペットを演奏していたが、近所の子のジョージ・ハリソンGeorge Harrisonは、父親からもらったギターで時々参加した。
二人とも青色と銀色のロンドン・アメリカンLondon American のレコードや、他に良く聞こえるものを何でも探して、リバプールの大きな家具とレコードのお店であるNEMS(ノーザン・イングランド・ミュージック・サービシーズ)でぶらついていた。
そこは、町で最もレコードが揃っていて、当時の多くのレコード店と同様に試聴ブースがあって、買おうとする有望な商品を視聴することができた。
ある日、ポールの友達のイバン・ボーガンIvan Vaughanが、自分の旧友がクォリー・メンthe Quarrry Menというバンドを持っていて、ウールトン教会の催し物に来ると話したので、二人は自転車に乗って町の向こうまで見に行った。
彼らがそこに行くと、ポールは興奮が何に対するものかが分かった。明らかにリーダーだとわかる若い男は、ギターの演奏はあまりうまくなかったが、発散させる姿勢があった。そのバンドがデル・バイキングスthe Dell Vikingsの「カム・ゴー・ウィズ・ミーCome Go with Me」を始めると、ポールにわかり始めたのは、この男が歌いながら歌詞を作っていて、しかもそれが気の利いた歌詞になっていたことだ。
バンドが退出すると、イバンはポールを連れて、幼馴染でリーダーのジョン・レノンJohn Lennonに合わせて連れて行った。
二人はお互いに警戒していたが、ポールは魅了されたので、ポールとイバンはクォリー・メンの2回目の舞台を待ち、それから教会の集会ホールで小さなダンスバンドとして、別の演奏をするために一緒に行った。集会ホールの準備ができるのを待ちながらぶらぶらしている間、ポールはジョンのギターを借りていいかと尋ね、バンジョーのようにチューニングされていることに気づいた。ポールはチューニングし直してよいかと聞き、そうした後、「女はそれを我慢できないThe Girl Can’t Help It.のサウンドトラックの曲で、エディ・コクランEddie Cochranの「トゥウェンティ・フライト・ロックTwenty Flight Rock」を演奏し始めた。
この曲にはペースの早い歌詞がたくさんあったのに、それを上手に演奏したので、ジョンは感動した。自分の演奏をみんなが楽しんでいるのを見て、ポールは「ビー・バッパ・ルーラBe-Bop-A-Lurla」と2曲ほどを素早く入り込ませ、そのあと、ギターを下ろして、ピアノに座ると「ロング・トール・サリーLong Tall Sally」を演奏した。
連中は、10時ごろまでぶらぶらし、それから酒を飲める年で通るかどうかを見るためにパブに行った。(マッカートニー15歳、レノン17歳間近だった。)最後には、別々に家路についたが、レノンは友人と歩きながら、ポールをクォリー・メンに参加させるべきかどうかを尋ねた。ポールはほかの連中よりずっと演奏が上手だったので、反感を持っていたかもしれない。しかしレノンは反感があっても、自分の野望のためには構わなかった。