南にある2Iでは新しいグループ、ブルース・ウェルチBruce Welchとブライアン・ランキンBrian Rankinのデュエットが登場したが、ブライアンは長期に見てもこの店で生まれたもっとも才能あるギタリストの一人で、二人ともニューキャッスルの出身だった。
ランキンはグループのことを考えて自分をハンク・ランキンHank Rankinと呼び、エバリー・ブラザースEverly Brothersが――ロックンロールにとっての――経典であるかの如く、そして傾倒したイギリスの少年にとっては事実だったが、そのレコードを研究した。
ジェット・ハリスJet Harrisは最も好きなベーシストだったが、レイルローダースthe Railroadersは見つけることのできたリズム・セクションとは誰とでも一緒に演奏し、演奏すればするほど上手になった。
レゾボーLes Hobeaux、モスト・ブラザースthe Most Brothers、ウィー・ウィリー・ハリスWee Willie Harris、他の二、三の初期ロッカーたちが30日間のイギリス・ツアーをしたとき、2Iで何が流行っているかを見に来たところ、ミッキーMickieでない方のモスト・ブラザースは、「彼らにはびっくりした。僕たちと全く違うんだ。」と話した。
ハンク・ランキンHank Rankinは、今度はチェロキー族との混血のカントリー・スター、マービン・レインウォーターMarvin Rainwaterと名乗った。
ハンクの名演奏は際立ち、アメリカのカントリー・スタイルのレコードを真剣に研究して、だれが演奏しているかわかり、その人たちの演奏方法が分かるようになるまで繰り返しレコードをかけた。ハンクとブライアンはデュオのアレンジにも取り組んだので、一方が他方のバックをやり、その逆もした。スキッフルの演奏者は単にコードをたたきつける傾向があった。必然的にハンクは2Iのもっと古手のグループ、この場合はもっとモダンなサウンドを目指していたバイパースthe Vipersから誘われ、ハンクは1週間バーミンガムで一緒に演奏する契約をし、「ジョニーBグッド Johnny B. Goode」のような曲で標準的スキッフルの曲を増やしたが、聴衆は関心を全く示さなかった。
週末には、マービンが辞めて2IでブルースBruceと再び共演したが、残りのバイパースメンバーはロンドンにこそこそと戻り、解散した。
その後、1958年3月、バディ・ホリーとクリケッツBuddy Holly and the Cricketsは21日間のツアーにやってきた。
これは本物で、間近で見られる。彼らは大声だ。彼らは陽気だ。彼らはロックをやった。かつては誰もフェンダー・ストラトキャスターーFender Stratocasterというギターを見たことはなかった―だからアメリカのレコードはあんな音が出るんだ!――し、イギリスもバディみたいなスターを作れればいいなと願った。
でも、たぶんアメリカ人にならなければいけないし、どうしようもないことだ。そして、バーン!と、アメリカ人ンロックンローラーが黒いレザーを着て2Iに現れた。ビンス・テイラーVince Taylorと自分のことを名乗り、それ以外のことは自分で作ったミステリーに覆われていた。
彼は、カリフォルニアの出身で、そこではスターであり、ハリウッド・ハイ・スクールHollywood High Schoolに通い、パイロット・ライセンスを持っていた。
・ハイ・スクールの部分は本当だが、ミドルセックス州のモーリス・ブライアン・ホールデンMaurice Brian Holdenとして生まれ、とても幼い時に家族と一緒にアメリカに引っ越した。結局、家族はカリフォルニアに移り住み、一番上の姉はハンナ・バーベラ・アニメーション・スタディオHanna-Barbera Animation Studioのジョー・バーベラと結婚し、ホールデンはビーチのクラブで演奏を始めた。
彼はトミー・スティールTommy Steeleのレコードを何とかして聞き、これがイギリスでロックンロールとして通用するなら自分にもできると考えた。
そこで、彼、姉、ボブ・フライバーグBob Friebergという友人のギタリスト、そしてマネージャーのジョー・シンガーが1958年の夏にロンドンにやってきて、ブライアンはビンス・テイラーVince Taylorとなった。ビンスは2Iにいるタレントからなるバンドを作り、いったん演奏を始めると、だれもが従った。ビンスはルックスが良く、演奏がうまく、曲をカバーするセンスもあったからだ。ああ、ただ、ビンスは歌えなかった。それでも、イギリスに来ただけで帰ってしまったジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisのように、性的変質者のようには見えなかった。