もちろんロックンロールは少しだけ手に入りやすくなっていて、RCAはエルビスElvis、デッカはすでにバディ・ホリーBuddy Hollyとビル・ヘイリーBill Haleyの権利を獲得し、フランキー・ライモンFrankie Lymonは何回かツアーをしてロンドン・パラディウムThe London Palladiumでライブ・アルバムを録音したので、そのレコードは数社が発売していた。
しかし、アトランティックAtlantic、チェスChess、サンSun、マーキュリーMercury、リバティLibertyには、そのような代理人がいなかったので、ミミ・トレペルMimi Trepelが望むレコードを喜んで貸し出した。
そして、これらのレコードを聞いたイギリスの子供たちは考えた。トミー・スティールTommy Steeleが典型的なブリティッシュ・ロック(トミーは、自分で描くキャリアとしてのオール・ラウンドなエンターテイナーにとって、「ロックンロールの支え」は必要ないと言っている。)だった時、子供たちの考えを実行する方法は困難を伴ったが、スキッフルは毒にも薬にもなった。
もしギターかバンジョーが2台あれば、自分でできるスキッフルという音楽は、とても魅力的で、ラジオで大して流れなくても、イギリスでは1957年にとても広まった。ロンドン、特にソーホー地区のデンマーク通りはスキッフルの中心地だったが、本質的には素人芸のスキッフルは人から人へ広がりやすく、すぐにロンドン以外にも広まった。
1957年、科学者、反戦活動家、フォーク・ソング・ファンであり、初期スキッフルグループを擁護していたジョン・ハステッドJohn Hastedがスキッフルからの引退を表明した時、雑誌のコラムに「スキッフルが下火になる時、二つの方向に分かれるだろう。ロックンロールとフォーク音楽だ」と書いた。
ロンドンではすでにその初期の証拠が出ていた。アレクシス・コーナーAlexis Korner、シリル・デイビスCyril Daviesは名声を確立したカントリー・ブルース・デュエットで、ランブリン・ジャック・エリオットRamblin’ Jack Elliott は、再び現れてアメリカのバンジョー演奏の友人のデロール・アダムスDerroll Adamsに、イギリスに来てフォーク音楽を一緒に広めるように声をかけたところ、ある種のティーネージャーがソーホーにある2Iのコーヒー・バーに現れ、ギターをジャンジャン鳴らし続け、この店にあるほとんどがロックンロールのジュークボックスのレコードを複製して演奏しようとした。
そして彼らはそこで演奏を続けた。テリー・ウィリアムスTerry Williamsは郊外から友人と二人で何が起きているかを見に来て、見物した後、ギターを持って戻って来てオーディションを頼んだ。
マネージャー・タイプの人が現れ、テリーは合格し、突然、イギリス最新のロック・センセーションを起こすテリー・ディーンTerry Deneとなった。
アレックス・ウォートンAlex Whartonとマイケル・ミッキー・ヘイズMichael “Mickie” Hayesは2Iの階上、階下で演奏し、店の顔となるとともに、ヘイズはなんでも「最高the most」と呼ぶ、ひどく大げさな言葉づかい(つまり、ともかく自分が分からないこと)で目立った。
ヘイズは直ぐにミッキー・モストMickie Mostとして知られるようになった。結局、ミッキーとウォートンはモスト・ブラザースthe Most Brothersとして、ハウス・バンドのレゾボーLes Hobeauxと共演することになり、マネージャーをつけてもらった。
1957年後半、BBCテレビジョンのザ6.5スペシャル The 6.5Specialは2Iからライブ放送して、たくさんの人気タレントを特集して、全国が突然、ロンドンはロックをしている――スキッフルをしていることを知った。
1958年にはもっとたくさんのスターが現れた。