10月にキューバ・ミサイル危機が終わると、心から安堵しみんなで浮かれた。無作法な中年ユダヤ人のコメディアンのアラン・シャーマンAllan Shermanは、マイ・サン・ザ・フォークシンガーMy Son, the Folksingerという、コミック・ソングととユーモラスな演目アルバムをキャピトルからリリースし、それをかけている間そばに立っていた。
キャピトルはそこから、ヒット・シングル「ヘロー・ムッダ・ヘロー・ファッダHellow Muddah, Hello Fadduh」を発売した。
その後、ビルボード誌11月24日号で別のコメディ・アルバムのザ・ファースト・ファミリーThe First Familyについて言及したが、これはボーン・ミーダーVaughn Meaderという名前の人が演奏し、レーベルはよりにもよって、以前エバリーブラザースがいたケーデンスCadenceだった。
ケネディ一家への風刺――ミーダーのJFKは、メイン州出身でアクセントが自然なのでほぼ完璧だ―は、誰もが待ち望んでいたようなもので、2週間でLP部門1位に駆け上がり、その間に275万枚のレコードを売り上げたので史上最速のアルバム売上だった。レコード業界の偉大な伝統によって、できるだけ早くレコーディングする物まねが出現した。ローリーLaurie recordsの「ディ・アザー・ファミリーThe Other Family(フルシチョフKhurushchevs)、アット・ホーム・ウィズ・ザット・アザー・ファミリーAt Home with That Other Family
(これもフルシチョフで、ジョージ・シーガルGeorge Segal、グウェン・デービスGwen Davis、
ジョーン・リバースJoan Rivers、バック・ヘンリーBuck Henryが主役)が
ルーレットRoulette recordsから、マイ・サン・ザ・プレジデントMy Son the PresidentがクランClan recordsから、
別のマイ・サン・ザ・プレジデントMy Son the PresidentがカップKapp recordsから、
ザ・プア・ファミリーThe Poor FamilyがマーキュリーMercury recordsから、すべて1週間のうちに発売されたが、どれもミーダーMeaderの域には達しなかった。ケネディはクリスマスに、友人へレコードを贈ったかもしれないし、贈らなかったかもしれないが、それは誰を信じるかによる。
そこで1962年末には様々な曲が流行していた。フォーク・ミュージックは正統派(ジョーン・バエズJoan Baez、グリーンブライアー・ボーイズthe Greenbrian Boysのバックで演奏していた都会のブルーグラス・バンドが初のアルバムをリリースしたが、
それによってかなりの影響力があることを証明し、バエズ自身もジョーン・バエズ・イン・コンサートJoan Baez in Concertでトップ・テンに入った)と商業派(チャド・ミッチェル・トリオthe Chad Mitchell Trioは
ウディ・ガスリーWoody Guthrieの「我が祖国This Land Is Your Lnad」でヒットすることを期待し、
ルーフトップ・シンガースthe Rooftop Singersは実際に、1930年代ガス・キャノン・ジャグ・バンドGus Cannon Jug Bandの曲「ウォーク・ライト・インWalk Right In」でヒットし、
バンガードVanguard Recordsから出たこととフォーク・ソングの聴衆が精査したおかげで、ガス・キャノンの作者と認められ、おそらく印税が支払われただろう)の両方があり、
そして、両方が混ざったもの(芸能界でトップのブルーグラス・演奏者の一人のレスター・フラットLester Flattとアール・スクラッグスEarl Scruggsが、「ザ・バラッド・オブ・ジェド・クランペットThe Ballad of Jed Clampett」をレコーディングしたが、
この曲は非常に成功した連続ホームコメディのザ・ビバリー・ヒルビリーズThe Beverly Hillbilliesのテーマソングになった。)がヒットし、ドーントレスDauntlessというレーベルが、シット・イン・ソングスSit-In Songsというアルバムを出したが、発生しつつある公民権運動の中でフォーク・ファンが音楽を使うことを警告している。
これらの曲の中には、南部のフォーク歌手ガイ・カラワンGuy Carawanによって別の目的で使われ、ピート・シーガ―Pete Seegerが手を加えた「勝利を我らにWe Shall Overcome」があった。