南に下ってナッシュビルでは、ジョセフ・アリントン・ジュニアJoseph Arrington Jr.がジョー・テックスJoe Texと名乗って演奏し、ダン・ペンDan Pennの「ミート・ミー・イン・チャーチMeet Me in Church」をレコーディングした。
これらのシンガーのほとんどは、ゴスペルの最新流行のドラマティックなソロの歌い方で演奏し、グループにサポートしてもらうこともあった。パイオニアはクララ・ウォードClara Wardで、クララ・ウォード・シンガーズClarara Ward Singersと一緒にナイトクラブで演奏を始めた。
このグループからは、この時代の別の著名なスターであるマリオン・ウィリアムスMarion Williamsが誕生し、そのスターズ・オブ・フェイスStars of Faithは、彼女らがラングストン・ヒューズLangston Hughesの1961年のショーのブラック・ネイティビティBlack Nativityに登場した時に、オフ・ブロードウェイでセンセーションになった。
ウォードとウィリアムスのスタイルの継承者は、デトロイトのもっとも有名な黒人牧師の一人レバランドCLフランクリンReverend C.L. Franklinの娘で、その説教のLPはチェスのゴスペル・シリーズのバック・ボーンだった。
アレサ・フランクリンAretha Franklinは14歳の時、初のレコーディングを教会のライブによって、チェスで行ったが、そこでは、彼女の声が天まで登って行くにつれ、驚いた聴衆が「彼女を聞いて!彼女を聞いて!」というのが聞こえる。
18歳の時には、父親の許しを得て友人のサム・クックSam Cookeと同じ道を追い求めた。
すぐあと、ジョン・ハモンドJohn Hammondがアレサをコロンビアと契約させたが、それが有名になることの切符だった。
残念なことに、コロンビアで長い間A&Rの長だったミッチ・ミラーMitch Millerは、ロックンロールを軽蔑していることで知られ、延々と続く「シング・アロング・ウィズ・ミッチSing Along with Mitch」のアルバムで有名だった。
コロンビアには黒人音楽はほとんどなく、フランクリンはジャズ部門に追いやられ、そこではレイ・ブライアント・トリオRay Bryant Trioと他のライト・ジャズ・コンボがバックに付いた。
彼女のシングルは、この時点で出てきた他のジャズの45回転盤と一緒に黒人用高級ジュークボックスを飾ったが、売り上げは芳しくなく、ナイトクラブとジャズ・クラブ巡回して演奏したものの、あまりたくさんのファンを引き付けなかった。彼女の歌を聞いて、彼女のレコード会社から受けているひどい扱いによる欲求不満で明らかに歯ぎしりしているものの中に、アトランティックAtlanticのジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerがいたが、彼女は契約でがんじがらめになっていて、コロンビアは契約を延長し続けた。
それでも、未来を止めることはできず、未来はいろいろな方法でやって来る。それは、8月12日、スタックスにおいて、運転手を務めていた背の高いひょろっとしたジョニー・ジェンキンスJohnny Jenkinsが車でやってきた。
彼は激しい生演奏をするギタリストで、スタックスからレコードを出したくて、地域の広告宣伝をアトランティックのためにしているアトランタ出身のジョー・ガルキンJoe Galkinの推薦を受けていた。ジェンキンスはthe M.G.と一緒にスタディオに入ってしばらく遊んでいたが、納得がいかず、明らかにジェンキンスの生演奏はスタディオには移動することができず、彼は良い曲を持っていなかったようだ。
その日、時が過ぎたところで、アル・ジャクソン・ジュニアはAl Jackson Jr.はスティーブ・クロッパーSteve Cropperのところにきて、運転手にレコーディングさせて、うるさく言うのをやめられるかと聞いた。
スティーブはうるさがられていたのだ。セッションが失敗に終わった時、ゴルキンGalkinは、機器制御盤の後ろに座っているジム・ストゥワートJim Stewartに、この大きい子は良い―—ジェンキンスの番組で息抜きのスポットを担当していた―—ので、賭けてみるべきだと言った。
ゴルキンは、売り上げの印税を半分にする代わりに出版権を半分にするという、相手がのみ易い申し出をし、ジムが応諾した。クロッパーCropperは自分の夜のコンサートのために出かける前に、スタインバーグSteinbergを捕まえるために外に出て、その子が準備をしている間にスタインバーグを連れ戻した後に、ブッカーT Booker T.は少しコードを演奏し、その子は歌い始めた。
「あれほど感情を表したい人間に会ったことは無かった。」とブッカーは言った。エステルEstelleは「彼は全く違う音を出していたが、それをやめることが全く無かった。」
この曲は、この子が書いた「ディーズ・アームズ・オブ・マインThese Arms of Mine」だった。
この子の名前はオーティス・レディングOtis Redding.4日後、ジムはこの子と契約した。10月に発売しR&Bチャートで20位まで這い上がった。