この週に、スタックス・レコードStax recordsから出たブッカーTとMG Booker T. and the M.G.のインストゥルメンタル「グリーン・オニオンズGreen.Onions」が90位に入った。
ブッカーTはブッカーTジョーンズBooker T. Jonesであり、スタックスStaxスタディオでブラブラしていた奇才で、メンフィス・グループMemphis Group(それを略してMG)は、有名な地元のバンドリーダーの息子のアル・ジャクソン・ジュニアAl Jackson Jr.がドラムス、同様に結党の明らかなルイス・スタインバーグLewis Steinbergがベース、スティーブ・クロッパーSteve Cropperがギターだった。
クロッパーはマーキーズthe Mar-Keysとともにツアーを生き残り、パッキー・アクストンPacky Axtonがその間アルコール中毒に陥るのを見た。
スタックスは「ラスト・ナイトLast Night」に続く曲を何曲かリリースした―「モーニング・アフターMorning After」、
「アバウト・ヌーンAbout Noon」、「フォクシーFoxy」、
「ポップ・アイ・ストロールPop-Eye Stroll」、「フォッツ・ハプニンWhot’s Happinin’!」―けれど、どれも全くうまく行かなかった。
トライアンフスthe Triumphs(実際には チップス・モマンChips Moman)によるインストゥルメンタルの「バーント・ビスケッッツBurnt Biscuits」なども、ブッカーTによる低域で演奏されるリフを基礎に置いた、地味で必要最低限のレコードも、どちらも全国で注意をひくことは無かった。
そのころまでには、スタックスで、ある変化が起きていた。「バーント・ビスケッツBurnt Biscuits」に関する論争の中で、言われていたよりも良く売れたと感じたモマンは、ジム・ストゥワートJim Stewartをあまりに怒らせて解雇されてしまい、むっとしてナッシュビルを去った。
ストゥワートの姉妹に関しては、精神的に参ってしまい、何かをやめなければいけないと医者に言われ、銀行の仕事を辞めた。「グリーン・オニオンがヒットするにつれ、MGは奇妙な現実に直面した。彼らはメンフィスでは法律的に演奏できなくなったのだが、例え、嫌がるルイス・スタインバーグLewis Steinbergが、クロッパーの友人のダック・ダンDuck Dunnに代わっても同じだった。
彼らは北のショーで演奏し、スタックス・スタディオでは人種だけが明確な理由ではなかった。偶然かも知れないのだが、ベリー・ゴーディBerry GordyのヒッツビルU.S.A.とは違って、ジム・ストゥワートが古い劇場に掲げたのは、ソウルスビルU.S.A.と書いてある看板だった。
ソウルは、聞けはソウルと分かる特徴を持っていて、レイ・チャールズRay Charles、サム・クックSam Cooke、ファイブ・ロイヤルズ・タナー・ブラザース”5”Royals’ Tanner brothersがパイオニアで、クラブでは人気のある曲だったのだが、その理由は後に有名になった若いアーティストたちが最初に出したレコードだったからだが、売れなかった。
フロリダ出身デュエットのサム・アンド・デイブSam and Daveは地元のレーベルから曲を出していて、「アイ・ニード・ラブI Need Love」をルーレットが採用してくれた。
母親のゴスペル・グループから逃げ出してきたフォンテラ・バスFontella Bassはボビン・レコードBobbin recordsでレコーディングし、セントルイスのクラブで演奏し、一方、リトル・ミルトンLittle Miltonはサン・レコードSun recordsでエルビス以前にレコーディングし、これからチェス・レコードで、エッタ・ジェームスEtta Jamesのようにブレークしようとしていた。
エッタもベテランで、もしコンサートへの出演がもう少し定期的に行われていれば、彼女の「ストップ・ザ・ウェディングStop the Wedding」はもっとヒットしていたであろう。