一方、モータウンMotownの方は絶好調で、マーベレッツthe Marvelettesは「ポストマンPostman」のヒットの後、リード・シンガーのグラディス・ホートンGladys Hortonがモータウンのスタッフ数名と共作で「プレーボーイPlayboy」を出し、メアリー・ウェルズMary Wellsは「ザ・ワン・フー・リアリー・ラブズ・ユーThe One Who Really Loves You」がヒットし、最新のミラクルズthe Miraclesのレコード「アイル・トライ・サムシング・ニューI’ll Try Something New」は、ボーカル・グループ・サウンドの傑作だった。
ミラクルズのロニー・ホワイトRonnie Whiteは、11歳と若い盲目の子供でハーモニカの演奏が上手な、スティーブランド・モリスSteveland Morrisに紹介され、ヒッツビルHitsvilleに連れて行き、みんなに向けて演奏した。
ベリー・ゴーディBerry Gorgyは彼の演奏を聞いて、「わあ、あの子すごい」と言ったとされ、そこで『スティービー・ワンダー』という名前をあげ、ファイブ・ロイヤルズthe “5” Royalesのローマン・ポーリングLowman Paulingの弟であるクレアランス・ポールClarence Paulに引き渡して曲を作らせた。
すぐにこの子は「アイ・コール・イット・プレティ・ミュージック・バットゥ・ザ・オールド・フォーク・コールイットゥ・ザ・ブルースI Call It Pretty Music, but the Old Folks Call It the Blues.」を書いた。
これはヒットしなかったが、ポールはあきらめなかった。他ではシレルスthe Shirellesが、戦争は続いていなかったが「ソールジャー・ボーイSoldier Boy」で、続けて人の感情に訴え(ほとんどの人はそう考えていたし、アメリカはベトナムに『アドバイザー』を送り込み、もう少し追加しようとしていた。)、そして狂気の沙汰だが、リビングトンthe Rvingtonsというグループがほとんど無意味音節だがうまくアレンジした「パパ・ウーム・モウ・モウPapa Oom Mow Mow」を発表した。
奇妙なことにこの曲はサーファーの間で大ヒットした。
また、アトランティック・レコードAtlantic Recordsでは、ポップ分野は非常に静かだった。
ネスヒ・アーティガンNesuhi Ertegunは引き続き、チャールズ・ミンガスCharles Mingus、
オーネット・コールマンOrnette Coleman、ジョン・コルトレーンJohn Coltraneと素晴らしいジャズ・レコードを作り続け、
ジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerはソロモン・バークSolomon Burke、
ベンEキングBen E Kingの人気を出そうと必死だったが、一方で昔のスターのコースターズthe Coasters、
ドリフターズthe Driftersなどは瀕死状態であるか、ルース・ブラウンRuth Brownなどはキャリア復活を望んで他にレーベルに移籍した者もいた。
1962年の間、ビジネスを持ちこたえ続けられるようにする公式を発見したのはアーメット・アーティガンAhmet Ertegunで、それは外国のインストゥルメンタルだった。
ミスター・アッカー・ビルクMr. Acker Bilk(そう覚えてもらうのを気に入っていた)「白い渚のブルースStranger on the Shore」でトップになったが、この曲はシャリュモー・クラリネットのスタイルをフィーチャーしたイギリスのテレビ番組のためのテーマソングだった。
また、デンマーク人ピアニストのベント・ファブリックBent Fabricは、「アレー・キャットAlley Cat」でトップ・テンに入っただけでなく、グラミー賞ロックンロール・レコード・オブ・ザ・イヤーを獲得した(実際はロックンロールではなかった)。
こういったレコード選びは簡単で、レコード会社が外国の流通業者から聞いたり、イタリアのサンレモ音楽祭などヨーロッパの歌のコンテストに行って、レコード使用の選択肢に関して一回限りの安い契約を結び(たいていはインストゥルメンタルだったが、それでも、1958年のナンバー・ワン・ヒットになったドメニコ・モデューニョDomenico Modugnoの「ボラーレNel Blue Dipinto Di Blue(Volare)は覚えている―そして、これには一言も英語がなかった!」)、発売するのだ。
この頃、このようにチャートを荒らす曲がたくさんあったように思えるが、何とかアトランティックに挑戦したのは、ドットDot recordsからイギリスのケニー・ボールのジャズメンKenny Ball’s Jazzmenが出した「モスクワの夜は更けてMidnight in Moscow」しかなかった。
もちろん、ヨーロッパでヒットしたほとんどの曲はアメリカでは売り物にならなかったが、ビルボード誌は5月、ベルギーの14歳と15歳の子たちが、アコースティック・ギターをかき鳴らしながら彼女の修道会の教祖である聖ドミニクを称える修道女のレコードを買っていると報じた。そして、ロックンロールのフランス語やイタリア語のバージョンが・・・えーと、わざわざそうする必要があるのかな?