アルドン・ミュージックAldon Musicの初期の顧客の一人がフィル・スペクターで、フィルはゴフィン・キングGoffin & Kingの曲「エブリ・ブレス・アイ・テイクEvery Breath I Take」をジーン・ピットニーGene Pitneyの2度目のプロデュースに当たって選び、大したヒットにはならなかったものの、結局、カリフォルニアにおける24歳の神童で、リバティー・レコードLiberty RecordsのA&R責任者に昇進したスナッフ・ギャレットSnuff Garrettが、スペクターをイースト・コーストのA&R責任者に登用して、レコード会社の職に付けた。
しかし、スペクターはレスター・シルLester Sillと一緒に自分のレーベルであるフィレス・レコードPhilles recordsを立ち上げるのに忙しく、リバティーの仕事を引き受けてから短期間になんとリバティーのために3枚のシングルを出したが、どれも大したヒットにはならなかった。
スペクターのオフィスは、頻繁に使っていたエア・ホッケー台など設備が整っていて、特に何もしていないことを考えれば、非常に多額の給料をもらっていた。1962年3月に雇われ、7月までずっとそのままで、その時点で、スペインで長期有給休暇を取る話をした。それだけでなく、3万ドルを前払いで受け取ってリバティを去り、それを使って真剣にフィレスに取り組んだ。
物事は始まった。2月のクリスタルズthe Crystalsの「ゼアリズ・ノー・アザー・ライク・マイ・ベイビーThere’s No Other Like My Baby」の次作として、スペクターは、ほとんどプロテスト・ソングともいえるマリー・マンBarry Mann―シンシア・ワイルCynthia Weilのナンバーを選んだ。
「アップ・タウンUp Town」は、歌い手のボーイフレンドが毎日起きてはダウンタウンに向かい、そこでは「小さな男」であり「100万人の中の一人」に過ぎないが、彼は特別だと歌い手が彼に知らせる。
この歌には暗号がたくさんあり、マイノリティは様々な都市の様々な地域に住んでいるが、ニューヨークで『アップタウン』は明らかにハーレムで、歌い手は明らかに黒人だ。この曲はポップ・チャートで13位にしか上らなかったが、それでもレコードの奏で方、どんな内容が子供たちへの響くのかについてメッセージを送ったのだ。その時、スペクターはこの曲をほとんど評価しなかった。スペクターが何を考えていたかは分からないが、「アップタウン」の次作はゴフィン・キングGoffin-Kingの曲「ヒー・ヒット・ミー(イットゥ・フェルトゥ・ライク・ア・キス)He Hit Me(It Felt Like a Kiss))だった。
インストゥルメンタルのB面の主張を考えれば、それはフィレス・レコードにとって、のるかそるかだったが、まさに彼がリバティ・レーベルを出たタイミングでの大きな失敗だった。チャート入りせず、売れず、放送もされなかった。彼は22歳でダメになってしまったのか。
もしかするとスペクターはもっと保守的でツイストのノベルティ・ソングを試すべきだったかもしれない。結局、ペパーミント・ラウンジPeppermint Lounge でジョイ・ディーとスターライターズJoey Dee and the Starliters、そして、ジョー・アン・キャンベルJo Ann Campbellが主役で撮影された映画「ヘイ!レッツ・ツイストHey_!Let’ Twist」が1月第1週に封切られ、翌週のアルバム・チャートでツイストのアルバムが6枚入り、3枚がトップ・テン入りした。
ポパイthe Popyeというダンスは、エディ・ボEddie Boの非常に魅力的な「チェック・ミスター・ポパイCheck Mr. Popye」のおかげで、ニューオーリンズで始まり、伝えられるところによればバルティモアまで広がったダンスであるが、それによってひきおこされたと考えられていた脅威があったにもかかわらず、ツイストは全く好調だった。