ティン・パン・アレーTeen Pan Alley:授賞式におけるアルドン・ミュージックAldon Musicのソングライター、スタッフ、友人:(上段左から右へ)ジャック・ケラーJack Keller、アーティー・レビンArtie Levine、ルー・アドラーLou Adler、アル・ネビンスAl Nevins、シェイラ・カーシュナーSheila Kirshner、ドン・カーシュナーDon Kirshner、エミル・ラ・ヴィオラEmil La Viola、モーリス・レビーMorris Levy、ハワード・グリーンフィールドHoward Greenfield;(下段左から右へ)バリー・マンBarry Mann、シンシア・ワイルSynthia Weil、ジェリー・ゴフィンGerry Goffin、キャロル・キングCarole King、ニール・セダカNeil Sedaka
北に行ってチェス・スタディオChess Studiosで、1961年夏、チャック・ベリーChuck Berryのレコーティングをたくさん行った。
魅力を精一杯出しつくして刑務所に行くことになっていた。1962年2月19日、インディアナ州テレホートの連邦刑務所に入り、後にカンサス州レブンワース・ペナテンシャリに移送され、刑期末に向けて、ミズーリ州スプリングフィールドにある連邦囚人のための医療センターに行き、1963年10月18日、37歳の誕生日まで刑務所にいた。
それはチャックの経歴の終焉ではなく、―—最初は感謝を述べていたが、1963年からは再びヒットを出し始めた―—目立った休止であり、社会に抵抗できると考える人々への警告だったとも思えた。一方、チャックの離脱期間は、公民権運動の台頭とほぼ完全に一致していて、皮肉なことに、もし彼がもう少し成功していなければ、そしてもう少しポップ・ミュージックに関係していなかったら、フォーク・ファンの中の公民権運動支持者の中には、チャックの主張を支持する者もいたかも知れなかった。ところが実際には、チャックは独房に座り、経理やビジネス・マネジメントの本を読んでいた。そしてほかのソングライターが台頭していた。
1991年、フローレンス・グリーンバーグFlorence Greenbergは、ダイアナ・レイド・ハイグDiana Reid Haigとのインタビューで、「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモローWill You Love Me Tomorrow」にまつわる出来事を思い出し、彼女のオフィスにあるピアノで一部分を書いたと言った。
「カーシュナーDon Kirshnerさんは本当に大物の出版者で、私のところに来てシレルスthe Shirellesのための歌があるんだと言って・・・カーシュナーさんは一緒に仕事をやろうという意味だと分かったわ。」彼は大物になって間がないし、セプター・レコードScepter Recordsのオフィスまでタクシーに乗らなきゃいけないほど遠くもなかった。セプターはブロードウェイ1650番地、カーシュナーのオフィスはブロードウェイ1619番地だった。
両社とも活動の拠点で1650番地の他のテナントにはアトランティック(レコーディング・スタディオも持っていた)がいて、1619番地に関しては、そこはブリル・ビルディングBrill Buildingだった。
1931年竣工で、モリス・ブリルMorris Brillという地上階の服のお店にちなんで名づけられ、すぐにニューヨークのミッドタウン、特にタイムズ・スクエアの劇場地区周辺に散らばっていた音楽出版ビジネスの中心地になった。
ロビー・カードには、出版社の誰々と書いてあり、ミルズ・ミューシックMills Music、フェイマス・ミュージックFamous Music、フレッド・フィッシャー・ミュージックFred Fisher Music、そして無名の会社もたくさんあって、1958年に創業したアルドン・ミュージックAldon Musicもいた。