ウディ・ガスリーWoody Guthrieは1930年代の第1次フォーク・リバイバルから活躍していて、伝統的な曲の枠組みに政治的メッセージを書いて、当時ハンチントン病Huntington’s diseaseという神経症でニュージャージー病院に閉じこもっているが、ジマーマンBobby Zimmermanはできるだけたくさん吸収した後、そのウディ・ガスリーを発見し、何を次にすべきかを知り、行ったこともなければ知り合いもいないニューヨークに向けて旅立った。
1961年1月に到着したが、絶好のタイミングだった。イスラエルGヤングIsrael G. Youngはグリニッチ・ビレッジにあるマックドゥーガル・ストリートにフォークロア・センターFolklore Centerという店を開き、楽譜、本、少しばかりのレコード、時々は楽器を売っていて、それはフォークソングのファンにとって魅力だった。
ヤングはシング・アウトSing Out!にもコラムを持っていたが、この雑誌は1950年から出版され、全国の行事を知らせていたので、より多くに人達を彼の店に引き付けていた。1960年12月、左利きのギタリストでシーガ―スthe Seegersの事務所管理人として働いていたエリザベス・リバ・コットンElizabeth “Libba” Cottonと、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズNew Lost City Ramblersのコンサートを宣伝した。
コンサートの入りが良かったので、ヤングは若い伝統主義者、年老いたアーティストのショーをもっと催したくなり、それでこうして、ランブラーズthe Ramblersのジョン・コーヘンJohn Cohen、アーバン・ブルーグラスのグリーンブリアー・ボーイズthe Greenbriar Boysのラルフ・リンズラーRalph Rinzler、
フォーク・ダンサーのマーガレット・メイヨーMargaret Mayoがフレンズ・オブ・オールド・タイムthe Friends of Old Time Musicを結成し、
1961年2月11日、グリニッチ・ビレッジのP.S.41で初演を迎え、共演者のケンタッキー出身で複数楽器を演奏する歌手のロスコー・ホルコムRoscoe Holcombは、見出しがリッチーRitchie、グリーンブリアーズthe Greenbriars、ランブラーズthe Ramblersの上に来た。
これは大成功だったので、3月25日に同じ会場で、クレアランス・アシュレーClarence Ashleyのグループ、ドク・ワトソン・Doc Watson、バージニア州出身の歌手、アン・バードAnne Birdも共演した。
ニューヨークタイムズThe New York Timesのロバート・シェルトンRobert Sheltonはこのショーを褒めて書き立てた。
このような動きはニューヨークに限ったものではなかった。ボストンは、バンガード・レコードVanguard recordsで2枚目のアルバムをレコーディングしている若きジョーン・バエズJoan Baezのおかげでフォークが盛んだった。
起業家のアルバート・グロスマンAlbert Grossmanはシカゴで、ライス・ホテルthe Rice Hotelの地下にゲート・オブ・ホーンThe Gate of Hornというクラブをオープンし、地元やツアーのフォークシンガーを受け入れていた。
バークレーでは、戦争が勃発した時に小さなポーランド王族になろうとしていた若者のクリス・ストラックウィッツChris Strachwitzが、自分で物事を運ぶ途中であった。彼の家族はナチスより一歩早くアメリカに着くとすぐに、親戚によってシカゴに滞在させられ、ストラックウィッツはそこでラジオからブルースを聞いたのは驚くことで無い。
彼は、ジョン・リー・フーカーJohn Lee Hookerやライトニン・ホプキンスLightnin’ Hopkinsなどの、ギターしか携えていない基本的な演奏者(そしていまだにヒット曲があってラジオでかかる)が好きで、大学に行くためにカリフォルニアに引っ越した後、テープ・レコーダーを抱えて、ヒューストンにいるライトニン・ホプキンスに会いに行った。
そうしても最初は大したことが起きなかったが、テキサスの民俗学者がストラックウィッツと友達になり、名人的ギター・スタイルを持ち、ブルース以前の歌手の伝統までさかのぼる広いレパートリーのある、ナバソタにいる小作人、マンス・リップスコームMance Lipscombのことを話したので、ストラックウィッツは会いに行き、友達になって、録音した。
最終的に出来上がったアルバムを自分でアーフーリーArhoolieというレーベルから出したが、このレーベルは黒人作業員が作業の助けになるために出す叫びにちなんだもので、4月にアーフーリー1001Arhoolie1001、マンス・リップスコームMance Lipscombはリリースされた。これを聞いた人たちの間で大評判となり、ロスコー・ホルコームRoscoe Aholcombのように、レコード・レーベルが同じような音楽を作っても、リップスコームは影響を受けなかった。
そんなレコードがどれ程発売されたのだろう?その件に関しては、もし、クレアランス・アシュレーClarence Ashleyが生きていて良い音楽を作っていたら、どれほど多く、フォークウェイズFolkwaysのアンソロジーAnthologyやカントリー・ブルースCountry Bluesの演奏者が見いだされたであろうか?