しかしながら、ニュー・オーリンズのスタディオで進化したサウンドは、ルイジアナから出た新しい音楽の一つに過ぎない。もう一つのサウンドは数年間良い方向に進んだ。たぶん全国で聞かれた最初の実績は、1959年、ジョージ・コーリーGeroge KhouryのレイクチャールズLake CharlesレーベルにおけるコーリーKhoury 703で、クッキーとカップケイクスCookie and the Cupcakesの「マチルダMathilda」だった。
ヒュー・クッキー・シエリーHuey “Cookie” Thierryは中南米のクレオール人で、人気のハウスバンドのレイク・チャールズ・クラブのリーダーを務め、曲は普通ではないが楽しいビートで、四分音符と3連符を変化させたダム・ダー・ダー・ダー・ダムというベース・ラインで支えられていた。
クッキーがお願いしながら配達したことでこの曲は売れ、交渉を通じて、コーリー・レーベルからジャドJudd records(サム・フィリップスの兄弟が所有していた)へ、さらにチェスへと行き、そこで留まった。
ジョージ・コーリーの次の相手はフィル・フィリップスPhil Phillipsで、フィルの「シー・オブ・ラブSea of Love」は1959年に第2位となる大ヒットで、他に何が起こっているかを見るために西ルイジアナに来たシェルビー・シングルトンShelby Singletonという名前のナッシュビルのやり手によって、マーキュリー用として選ばれた。
テキサス州出身の床屋でパートタイムのラジオ・パーソナリティ、ヒューイPモーHuey P. Meauxもタレントを求めてこの地域を探し回り、自分の最初の制作物、ジビン・ジーン・ブァジワJivin’ Gene Bourgeoisの「ブレーキング・アップ・イズ・ハード・トゥ・ドゥBreaking Up Is Hard To Do」を、シングルトンSingletonを通じてマーキュリーMercuryに貸し、そのおかげで刑務所に入れられそうになった。
ヒューイが地元の銀行に小切手を提示すると、床屋がそんなお金を合法的に手に入れることはできないだろうから、銀行が麻薬取締班に電話したのだった。あの「マチルダMathilda」のベースラインがもう一度流行り、ヒットした。1961年初め、モーは、ビル・プラットのあるプレーリーのケイジャン町にいる友人のフロイド・ソイローFloyd Soileauから電話をもらった。
ジョー・バリーJoe Barryのような演奏をするジョセフ・バリオス・ジュニアJoseph Barrios Jr.という歌手が、ソイローSoileauのジンJinレーベル(地域のケイジャンとクレオールの市場を、ソイローのスワローSwallowレーベルがすでに支配していた)から地元ではかなりのヒットを出して手に負えなくなる恐れがあるというのだ。
「アイム・ア・フール・トゥ・ケアI’m a Fool to Care」は昔のレス・ポールとメアリー・フォードLes Paul and Mary Fordの曲で、声をすぐそばで聞いたモーは、ファッツ・ドミノの声は激しさがあるものの、バリーBarryの声はそれに異常に似ているので、マーキュリーとレコード契約を交わした。
モーはまた、ジミー・ドンリーJimmy Donleyにも目をつけていて、ジミーは曲を書いてファッツ・ドミノにわずかな金で売っていて、バリー同様に白人だった。
ドンリーの問題はひどいアルコール依存症で、そのために自分の曲を50ドルと多少のウイスキーで売ったのだが、もしモーが自分の管理下に置けば何かをやってくれると分かっていたのだ。一方、モーは、ヒューストンのクラブで演奏していた左手の女性ギター演奏者、バーバラ・リンBarbara Lynnを見つけた。
この業界では、この新しい音楽を「スウォンプ・ポップswamp pop」と呼ぶ人もいたが、リンはそうではないものの、潜在能力はあった。