ロックンロールの歴史 1961年 7

メンフィスでは、パッキー・アクストンPacky Axtonのバンドが、長期間にわたって昼も夜も働いた後おそらくロイヤル・スペイズRoyal Spadesというスタディオ名はあまり良くないのでマーキーズMar-Keysに変えようと考えたが、そこは、ジム・ストゥワートJim Stewartとエステル・アクストンEstelle Axtonが貸していたスタディオだった。

The Mar-Keys - The Last Night EP - 10" – Rough TradeEstelle Axton: A Woman, A Place, and the Memphis Sound | National Trust for  Historic Preservation

(アクストン夫人はマーキスMarquisを提案したが、バンドは『 q 』が嫌いだった。)彼らは、キーボード奏者のスム―チー・スミスがオルガンで演奏した循環リフを中心にして、インストゥルメンタルを急いで作り、何回か循環した後、管楽器で補強した、コーラスの代わりに音楽が止まり、バンドは「あーーーーーーー!ラスト・ナイト!Aaaaaaaah!Last night!」となる。

実はこのバンドは町で遊んでいたわけではなかった。ベイシストのダック・ダンDuck Dunnは、父親が金銭問題を抱えていたので辞めざるを得ず、友人と一緒にヘリコプターに乗せるビジネス始めた。

Giants of Bass - Duck Dunn - YouTube

彼の代わりに、2代目にさかのぼると立派なメンフィスの黒人音楽家族の子息のルイス・スタインバーグLewis Steinbergをベースにした。

Lewie Steinberg, Booker T. & the M.G.'s Bassist, Dead at 82 - Rolling Stone

スタインバーグは残りのメンバーより年上だったが、サテライト・レコードSatellete Recordsとそのスタディオの周りの状況を見て驚いた。

Satellite Records

子供たちが外の歩道でダンスをする間に、アクストン夫人はお菓子売り場のレコード店でレコードを回転させ、誰が何を買ったか、几帳面にノートを付けていた。歩道で踊っている子たちが熱中できるものを演奏するようにパッキーに言ったのは、アクストン夫人だった。結果的に出来上がったテープをダビングして地元のラジオ局にもっていったのもアクストン夫人で、ラジオ局はそれを止めることなくかけた。翌日、まだ製造していないにもかかわらず、人々は彼女の店に寄りレコードを求め、サテライトがプレスし発売した後、一枚ずつ、店頭で2,000枚売ったと、後になって彼女は言っている。「ラスト・ナイトLast Night」は全国的な巨大ヒットで、アトランティックの助けもあって、200万枚売れた。

Mar-Keys 45 RPM Record Last Night B/WNight Before | Etsy

Mar-Keysはツアーに出て、最初はカーラ・トーマスCarla Thomasとアクストン夫人が付き添ったが、すぐに単独で行った。もちろんそれはマーキーズの全員白人版で、マクレモア・アヴェニューについて何も言わないことは、彼らが演奏した黒人と白人のクラブには伝わらず、彼らは南部を暴れまわり、人生の夏休みを謳歌した。

CARLA (LP)/CARLA THOMAS/カーラ・トーマス |SOUL/BLUES/GOSPEL|ディスクユニオン・オンラインショップ|diskunion.net

ニューヨークで起きたのは、あるクラブが開店したことでした。一大事です。クラブやバーはマンハッタン、特にタイムズ・スクエアでは年中、開店したり閉店したりします。1958年、ジョニー・ビエロJohnny Bielloは、西45ストリート128番にあるクラブを、急にしばらく休暇を取らざるを得なくなった友人のシベイ・マモンSibbey Mamoneから、買い取らないかと聞かれた。

Amazon | Peppermint Twist: The Mob, the Music, and the Most Famous Dance  Club of the '60s | Johnson, John, Jr., Selvin, Joel, Cami, Dick | PopularDick Cami | thebluemoment.com

ビエロは既に2軒隣にワゴン・フィールWagon Wheelという別のクラブを経営していて、取引の詳細を詰める(ビエロは90%分の30,000ドルを支払い、残金はマモンの妻に夫が不在の時に支払うこととする)ために、仕事仲間数人と義理の息子ディック・カミDick Camiが同席した。ビエロは、金儲けをするために新しい酒場が欲しかった(やはり、合法的に金儲けをしなければマネーロンダリングは難しい)のだが、そこにはステージが有るので、音楽の段取りをしなければならなかった。他の近所のクラブはどれも何らかのジャズを演奏していた。カミはロックンロールを勧めた。これには利己主義がなかったとは言えない。カミはしばらくの間ロックンロール・ビジネスに関わろうとしたことがあり、2、3枚レコードにお金を出したが失敗したことがあるので、ミュージシャンはたくさん知っており、人脈があった。打合せの後、ビジネスマンたちは、ギャングプランクという新しい酒場の方にぶらぶらと歩いて行った。もちろん新しい名前が必要で、2、3検討した後、いつもキャンディーを頬張っている男、ファット・ジャック・ハーマンFat Jack Hermangが、自分がいま噛んでいるものにちなんでペパーミント・ラウンジPeppermint Loungeを提案した。いい考えだとビエロは思い、それで決まり、赤白キャンディーのステッキの配色となった!カミは素晴らしいバンドの予約を取り始めたが、開始までの時間は長かった。しかし最終的に、ニューヨーカーがB&Ts(bridge and tunnel people)と呼ぶよそ者はこの店を見つけ、繁盛を続けた。

PEPPERMINT LOUNGE discotheque at 128 West 45th Street, New York, in 1961  Stock Photo - Alamy11 Peppermint Lounge ideas | peppermint, rock and roll, trip the light  fantastic

 

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