実のところ、バーバラ・リンBarbara Lynnは本質的にはブルース演奏者で、ブルースにとってこのタイミングはとても良く、特にほとんどがシカゴから来たサウンドにとってはなおさらだった。
ジミー・リードJimmy Reedはビー・ジェイVee-Jayでのヒットを続け(1961年は「ビッグ・ボス・マンBig Boss Man」と「ブライト・ライツ・ビッグ・シティBright Lights, Big City」の2曲の年だった)、1月後半には、ジュニア・ウェルスJunior Wellsが有名な「メッシン・ウィズ・ザ・キッドMessin’ with the Kid」をリリースし、シカゴ出身とは違うフレディ・キングFreddie Kingなどのシンガーもいた。
フレディのインストゥルメンタルの「ハイドアウェイHideaway」は、スティール・ギタリストなどギターの名手を自任する人たちすべての説得によって選ばれた。
ヒューストンでは、ドン・ロビーDon RobeyのデュークDuke レーベルがメンフィスのタレントを紹介し続け、1961年初めには2曲の名曲、ボビー・ブルー・ブランドBobby “Blue” Blandの「アイ・ピティ・ザ・フールI Pity the Fool」、ジュニア・パーカーJuniro Parkerの「ドライビング・フイールDriving Wheel」をリリースした。
そして、古顔たちは、チャートに載らなくても価値のあるレコードを作り続け、1月にはハウリン・ウォルフHowlin’ Wolfが「バック・ドア・マンBack Door Man」と、そのB面が「ワン・ダン・ドゥードルWang Dang Doodle」のレコードを、自分の古い名曲カタログを付けてリリースした。
チェスは新しい流れに少し注意を払い、いくつかのセッションにオーティス・ラッシュOtis Rushを何とか引き入れ、「オール・ユア・ラAll Your Love」と「ソー・メニ・ローズ・ソーメニ・トレインズSo Many Roads, So Many Trains」を制作したが、ちゃんと活動したのは、コブラCobra、クラッシュCrash、チーフChief、ロビンRobin、プロファイルProfileなどの小さなレーベルで、他の場所だけでなく幸運なことに、シカゴでも流通した。
幸いにもシカゴには2つのラジオ局があって、特に週末の夜にはブルースをかけていた。
3月13日、セント・ルイスで、チャック・ベリーChuck Berryの法的苦悩は続いていた。チャックの代理人はまだマール・シルバースタインMerle Silversteinで、関係者は最終的にジャニス・エスカランティJanice Escalantiの件が解決することを望んでいた。
証人をしっかりと見つけ出すことは本当に大変なことだが、いったん見つかれば、ジャニスを地方の女子修道会に入れるので、女子修道院長は急いで終わらせてしまいなさいと言った。起きたことに対して誰かがお金を払うとエスカランティが供述したことの一部に関しシルバースタインは重視していて、チャックはナイトクラブで一時預かりや写真売りをするためにセントルイスに彼女を連れて行ったと主張しているが、エスカランティはそんな仕事はしていないと証言した。一方で検察はチャックを性的捕食者として扱った、かつての出来事を多かれ少なかれ繰り返していた。どうやらそれが陪審員に効いたらしく、再びチャック・ベリーはマン法違反で有罪となり、ロイ・ハーパーRoy Harper判事は禁固3年、罰金5,000ドルの判決を言い渡した。チャックは上訴したが敗訴した。刑務所に向かった。彼は1961年にチェスで、更に数セッションのレコーディングをし、その中には彼の最高の(そして決して代表的でない)曲、「アイム・トーキング・アバウト・ユーI’m Talking About You」と「カム・オンCome On」が入っていたが、チャートにかすりもしなかった。