突然、ニュー・オーリンズから生まれたほかの曲と同じように聞こえない素晴らしい曲が、着実にぽつぽつと出てきた。皮きりは1960年4月、地元のバンド・リーダーのジェシー・ヒルJessie Hillが、意味はないけど人の心をひく「ウー・プー・パ・ドゥーOoh Poo Pah Do」を2パートに分けてミニットゥからリリースし、ルーレットが9月にヒットさせたジョー・ジョーンズJoe Jonesのレコード「ユー・トーク・トゥー・マッチYou Talk Too Much」をリリースしたが、ティーネージのキーボードの天才であるジェームス・ブッカーJames Bookerの「ゴンゾーGonzo」は例外だった。
K-Doeのヒット曲まで、地元のメンバーを避けていたわけではなかったが、その後、クレアランス・フログマン・ヘンリーClarence “Frogman” Henryは、ノベルティのヒット曲「エイント・ゴット・ノー・ホームAin’t Got No Home」が1958年に多少ヒットし、ニュー・オーリンズのビートに乗って、2月にチェスの子会社アーゴChess’s Argo subsidiaryから出した、怖気づいたような古いスタンダード・ナンバー「(アイ・ドント・ノー・ホワイ)バット・アイ・ドゥ(I Don’t Know Why)But I Do」で、再浮上した。機は熟してきた。
他人のためにヒット曲を作るのにうんざりしているニュー・オーリンズの人間はジョー・バナシャクJoe Banashakだけではなかった。
ハロルド・バティステHarold Battisteは数多くのヒット曲(「ユー・トーク・トゥ・マッチYou Talk Too Much」を含む)をアレンジし、黒人の自決に関する書物をたくさん読んだが、その多くはイスラム国the Nation of Islamという、ニューヨークに本拠地のある変な偽名のイスラム教徒集団が出版していた。
バティステの考えは単純で、ミュージシャンが集団として所有し、利益を分かち合い、自分たちのレコードを制作し、できるだけ黒人の所有する流通業者を使うことだ。AFOはこの春に法人化され、「all for one」という基本的概念の頭文字を表している。株主は、バティステBattiste、アルビン・レッド・タイラーAlvin “Red” Tyler(サックス)、アレン・トゥーサンAllen Toussaint(ピアノ)、ピーター・チャック・バディーPeter “Chuck” Badie(ベース)、ジョン・ブードローJohn Boudreaux(ドラム)、ロイ・モントレルRoy Montrell(ギター)、メルビン・ラスティ(コルネット)で、ラスティはミュージシャンの労働組合につながりがあるので、レコードをリリースでき、2パーセントを組合に払うのだが、のちにバティステが語ったように、これは自分たちの望んだことだった。
当時彼らに必要だったのは金で、ある日それが入ってきたのだった。ジャギー・マレイJuggy Murrayはニューヨーク出身の黒人ビジネスマンだが、自分の新レーベルのスー・レコードSue recordsを操業したばかりで、全国最大の黒人が所有するレーベルに育てるつもりだった。
マレーのところには既にアイク・アンド・ティナ・ターナーIke & Tina Turnerがいて、自分のためにタレント・スカウトをしてくれる人を探しにロサンジェルス行き、ソニー・ボノSonny Bonoを訪問すると、ニュー・オーリンズのバティステに話せと言われた。
マレーはその通りにすると、AFOの決意、才能、理想に感動し、その場で投資資金を渡した。
さあ、次はレコードを作る番で、メルビン・ラスティMelvin Lastieの叔父ジェシー・ヒルが二人のアーティストと現れたのが、ティーネージの女の子のバーバラ・ジョージBarbara Georgeとギター演奏者のローレンス・ネルソンLawrence Nelsonで、ネルソンは市にある黒人の秘密組織と関係があるという理由からプリンス・ラ・ラPrince La Laと名乗っていた。
ラ・ラはこの若い女性のために2曲書き、会社所属のバンドに概要を説明したが、このバンドは自分たちをAFOエグゼクティブと呼んでいたが、その理由は本当にAFOのエグゼクティブだったからだ。ハンド・メンバー達は、バティステとトゥーサンが精通している、つかみどころがなくぎくしゃくした動きのリズムに慣れてきて(ピアニストがセッションにいなかったので、代わりにマーセル・リチャードMarcel Richrdsを使った。)、数回のテイクで、バーバラ・ジョージBarbara Georgeがマイクまでやって来て、この曲を指して「分かった。」と言った。誰もがヒット曲を作ったと分かり(ラスティは契約締結につながる特に感動的なソロを吹いた。)、今度はララの別の曲を録音するときだ。頑張ったけど、バーバラにはできなかった。ラ・ラは頭を抱えてしまったが、彼には易しく見えた!最後に彼は自分でやると言い、AFOの2番目のヒット曲「シー・プット・ザ・ハート・オン・ミーShe Put the Hurt on Me」が出来上がった。
物事はうまく行っているように見えた。