しかし、興味深いことが起きていたのだがそれは、地域的手現象で電波によって飛んでいたということだった。
トップ・フォーティーは多くの場所に広まり、チャート上のヒット曲を決定していた。しかし多くのレーベルから明らかになったとおり、レコードを地域的に売ってもそこそこの生活しかできなかった。ジェイ・ミラーJay Millerを例にとってみよう。
ルイジアナ州クロウリーの精米の町にいて、電気製品店を操業しながら、ケイジャンのミュージシャンをレコーディングするために、1948年から運営していた小さなレコーディング機材を保有していた。ごくわずかしか払わず、印税を口にせず、ミラーは数百枚のレコードで収支トントンにして、ユーニスやマムウなど地方の町当たりのお店やジュークボックスに流通させるとともに、自分の店で売っていた。ルイジアナ州バトンルージュBaton Rougeは、本当はミラーの縄張りではなかったが、お金が儲かるとその話はすぐに伝わり、1954年にバトンルージュのブルース・マンであるオーティス・ヒックスOtis Hicksが、ライトゥニン・スリムLightnin’ Slimの名前で演奏すると、ミラーは彼のために「バッド・ラック・ブルースBad Luck Blues」を録音した。
このレコードは売れ始めるとミラーが追い付かないほどたくさん売れ、ナッシュビルのWLACが番組のレコード店がスポンサーになって代金を支払ってくれたのだが、そのレコード店の一つが自分でもナッシュボロNashboroとエクセロExcelloというレーベルを持っていた。
ミラーはブルースの曲について、エクセロに使用権を与え始め、ライトニン・スリムは地元のスターになった。1957年のあるセッションでのことだが、スリムはいつものハーモニカのプレーヤーであるジェームス・ムーアJames Mooreを引き連れて現れ、もしミラーがムーアのレコードを出さないとムーアは去ることを心配しているが、スリムはバンドにムーアを必要としていると話した。スリムはムーアのために「アイム・ア・キング・ビーI’m a King Bee」を書き、そしてミラーはスリムのセッションのパートをスリムに提供した。
数テイクの後、ミラーはムーアに鼻を通して歌うようにアドバイスした。ミラーはこの曲を気に入ったのだが、ムーアの声が退屈だったからだ。ムーアは言われたとおりにしたが、結果は驚くほどよかった。「キング・ビーKing Bee」は地元でしか売れなかったが、それ以上のことは誰も期待せず、ジェームス・ムーアJames Mooreは、スリム・ハーポSlim Harpoという洗礼名になった。ハーポはルイジアナとテキサスの全州で人気が出て、ライトニン・スリムがいることも、いないこともあったが、巡回経路以外でも演奏した。そして、どこからともなく、1961年初めに、ムーアのレコードの一枚「レイニン・イン・マイ・ハートRainin’ in My Heart」が突然全国ヒットし、R&Bチャートで14位、ポップ・チャートでも34位になった。
ニュー・オーリンズも新しい動きの時期が来ていて、実際に始まった。ファッツ・ドミノは次から次へとヒットを量産(刺激的なところや、挑戦的なところは決してなく、ニュー・オーリンズだと分かる唯一の要素は、第9地区のアクセントとピアノ演奏だ)し、これでコズィモ・マタサCosimo Matassのスタディオは食いつなげたが、エーワン・ディストリビューターA-1 Distributorを所有していたジョー・バナシャクJoe Banashakは、「他人のためのヒット曲を作るのはうんざりだ。」と言って、1958年にミニットゥ・レコードを始めた。
ミニットゥが初めて全国ニュースになったのは1961年で、アーニー・ケードウErnie K-Doeの「マザー・イン・ローMother-in Law」がそれまでで最大のヒットになった。
この曲はもちろんニュー・オーリンズで、アレン・トゥーサンAllen Toussaintを中心に作られたが、アレンは町中たくさんいる熱いピアノ演奏者の一人で、1958年にRCAレコードがレコーディング契約のためのオーディションに人々を集めた時、成功する見込みがあり、演奏するインストゥルメンタルを気に入ったのだった。
20歳のトゥーサンは何が起きているか分からないうちに、「ザ・ワイルド・サウンド・オブ・ニュー・オーリンズThe Wild Sound of New Orlieans」が、アル・トゥーサンAl Tousanのクレジットで発売され、レコード会社もどうして良いかわからなかった。
もちろん地元では有名になり、セッション・プレーヤーやアレンジャトーとしてお呼びがあった。バナシャクは、自分のレーベルの代表としてアーネスト・カドーErnest Kadorとともに訪れたが、カドーは人気のある地元のクラブ歌手でミニットゥの最初のシングル「ハロー・マイ・ラバーHellow My Lover」は失敗に終わっている。
トゥーサンは自分のための曲をいくつか持っていたのか?もちろん持っていたさ、たくさんね。そこで、トゥーサンはたくさんのミュージシャンを集めたが、その中にはサックスフォーンのアルビン・レッド・タイラーAlvin “Red” Tyle、バス・ボイスのベニー・スペルマンがいて、セッションのために人の心をひく楽しいレコードを作り、そのレコードは、バナシャクがユナイテッド・アーティストと流通契約を結んだあと、アーニー・ケー・ドゥーErnie K-Doeの「マザー・イン・ローMother-In-Law」のようにチャートを急上昇した。