学問をひけらかす人ならだれでも言うことだが、1960年代は1961年1月1日午前0時1分に始まり、キリスト教のカレンダーには0年はない。メディアは既に1年間新しい10年間のことをまくし立て、新しい若い大統領が選出されて、新時代の際にいる準備ができたようだ。しかし、たとえ1960年代が始まったとしても、60年代は始まっておらず、退陣するドワイト・アイゼンハワーの言葉を引用すると、状況は過去のままではなく、より現代に変わってくる。
様々なオールバックのイタリア系アメリカ人の少年が、子供たちが好きになるとプロデューサーが期待する少しロック風ビートの『良い』音楽をレコーディングし、その少年たちに対応する少女のコニー・フランシスConnie Francis、アネット・ファニセロAnnette Funicelloは自分たちの落ち着いたレコードを作った。
実際、アネットは、とても人気のあったミッキー・マウス・クラブThe Mickey Mouse Clubという番組の主要メンバーであるマウスケティアーから育ったのだが、ディズニーは1961年、アネットのハワイアン・レコードを大いに宣伝したのだが、それはおそらく、長期間流行したラジオ番組ハワイ・コールズHawaii Callsでかかった音楽に関心を持った子供を獲得しようとしたのだろう。ディズニー風だが、ハワイ・コールズHawaii Callsに出て来る葉巻は使わない。
リリースされた音楽は山ほどあった。クリスマス後の返品は積み上げられると、流通業者は、あまりに多くのLPが発売されると不平を言うが、この不平を誰かが聞いてくれることは無い。ビルボード誌Billboardを無作為に選ぶと、当時の大手レーベルが、歩きながら演奏するマンドリン、イディッシュ語で歌う集まり、チャールトン・ヘストンCharlton Hestonがキリストの人生を語るレコードを大衆は、欲しがっていたことが分かる。
コメディ・レコードがたくさんあった。この年は、ニコルスとメイNichols & May、シェリー・バーマンShelley Berman、
ボブ・ニューハートBob Newhart、レニー・ブルースLenny Bruce、
モート・サルMort Sahl、ベル・バースBelle Barth、
レッド・フォックスRedd Foxx、他に多くの人たちがアルバムをリリースした。
コメディ・レコードの製作費は安く、1演者、1マイク、クラブの出しゃばらないレコーディング機材、編集やミキシングはほぼなく、それでヒットするかもしれない。ボブ・ニューハートのレコード「ザ・ボタンダウン・マインド・オブ・ボブ・ニューハートThe Button-Down Mind of Bob Newhart」はLPチャートで1位になり108週間チャートに載り、その次の作品「ザ・ボタン・ダウン・マインド・ストライクス・バック! The Button-Down Mind Strikes Back!」も同様に1位になり70週チャートにいたので、生まれたばかりのワーナー・ブラザースWarner Bros.レーベルにとってとても必要だった収入を供給した。
2枚とも全米レコーディング芸術科学アカデミーによって与えられる優秀賞のNARAS賞を受賞した。この協会はペイオーラ・スキャンダルの結果、大手レーベルの倫理を監視し、業界のロビーイング団体を形成するために設立された。この賞は昔風の蓄音機のような形をしており、間もなくグラミー賞として知られるようになった。しかし、ニューハートの最初のアルバムが最初のNARAS レコード・オブ・ザ・イヤーを受賞したことは、この時点のポピュラー音楽の状態を必ずしもよく反映していたわけではない。