サテライト102Satellite102「コズ・アイ・ラブ・ユーCause I Love You」は地元で流行し、短期間に4、5千枚売れ(もちろんルーファスはラジオでかけた)、これが、他のレーベルの中でもアトランティックを扱う流通業を経営している、バスター・ウィリアムスBuster Williamsという名前の男の目に留まった。
彼は、メンフィスとその周辺地域でレコードが流行した時は、気付くように厳命を受けていて、アトランティックの代表が次回来た時に、このレコードについて話をした。間もなく事務はジェリー・ウェクスラーJerry Wexlerから電話をもらい、レイ・チャールズRay Charlesのプロデュースをしているものだという自己紹介を受けた。
ジムJim Stewartは最近たまたまレイ・チャールズを聞いて感動し、自分の小さなレコード会社にウェクスラーが関心を持ったことに喜んだ。
同意した内容は、アトランティックがサテライトからレコードを借り、全国販売し、少し印税を払い、将来的にルーファスとカーラのレコードの第一先買権を持つことだ。後でわかったが、「コズ・アイ・ラブ・ユー」は全国的には大したヒットにならなかったが、11月にサテライトがカーラ自身のレコード「ジー・フィズGee Whiz」を出した。
アトランティックはそれを拾い上げ、徹底的に宣伝した。
ウェクスラーはヒットすると分かっていて、実際にヒットし、R&Bとポップでトップ・テンに入った。サテライトは船出したのだ。
彼らメンフィス全員の中で最も有名なのは?エルビスはGIブルースを仕上げ、サウンドトラックを録音して、この楽しいことに戻るのに時間はかからなかった。兵役後の最初のシングル「本命はお前だStuck On You」で、二人のプロのソング・ライター、Jレスリー・マクファーランドJ. Leslie McFarlandとアーロン・シュローダーAaron Schroeder が作ったのだが、ちょっとショッキングなことに2番目だった。
この曲はイタリアのフォーク・ソングでカルーソーCarusoがレコーディングし、この話にはこれからの糸口があるのだ。
エルビスは自分の新しいセッションでは采配を振るい、大佐や周りのメンバーが持ってきた曲を慎重に検討した。エルビスが歌いたかった曲「オー・ソレ・ミオO Sole Mio」は明らかに長い間歌いたかったが、この曲で神経質になったのは、それが大きな新展開だったからではなく、著作権が切れているので出版してもそこからお金が入ってこないことだった。
エルビスが覚えた英語バージョン「ゼアリズ・ノー・トゥモローThere’s No Tomorrow」は、ヒル・アンド・レンジ社Hill and Rangeの連中に口を挟ませない人たちが出版したのだが、この会社はエルビスがレコーディングするすべての曲に分け前を与えなければならないと大佐が主張した。
この状況は、エルビスが軍隊にいるときにまとまったもので、ジェリー・リーバーJerry Leiberがサインを拒否した書類の空白部分に、もし署名して返却していたら、現実のものになるような状況だ。
オーティス・ブラックウェルOtis Blackwell、ドク・ポーマスDoc Pomusそしてモート・シューマンMort Shumanなどの作曲家にとってはこのことは問題なく、実際にこのようにして分け前を渡すことは、音楽業界の慣行としてはかなり標準的だった。
そこで、ヒル・アンド・レンジHill and Rangeの中にいる大佐の部下のフレディ・ビエンストックFreddy Bienstockがエルビスに、この曲に新しい詩を付けたらいやかと聞いたところ、エルビスは快く承諾した。
この曲は現在「イッツ・ナウ・オア・エバーIt’s Now or Never」として知られ、クレジットはウォリー・ゴールドWally Goldと(またもや)アーロン・シュローダーAaron Schroederになった。
当分の間は品質に問題がなかったが、何年か経つと、多くの才能あるソングライターたちが、この厳格に強制された規定によって、エルビスのための曲作りの可能性を断ち切れるようになった。ティーネージャーのファンが気に入るかどうか心配した人もいた(エルビスも含めて)が、「イッツ・ナウ・オア・ネバ―」は「スタック・オン・ユー」をしのぐ大ヒットになり、やすやすと1位まで進んで20週チャートにいた。