ジム・スチュワートJim Stewartとエステル・アクストンEstell Axtonは最終的に、ジムのレコーディングスタディオがブランズウィックの辺境にあって行くのに遠すぎるし、メンフィスを見渡すと、キャピトルthe Capitolという中流の黒人街に隣接している古い映画館が、カレッジ・ストリートとマクルモア・アベニューの角にあって貸し出していた。
賃料は月100ドルで音響特性が非常によく、ジムは自分のレコーディング機器を運び込むことができ、一方、エステルはロビーに小さなレコード店サテライト・レコーズSatellite Recordsを立ち上げることができた。
ブランズウィックにおけるようにたくさんのレコーディング活動が行われてはいないが、スタディオは目下ロイヤル・スペードthe Royal Spadesという白人のハイスクールの子供たちが使っていた。
もともとはギター・グループで、スティーブ・クロッパーSteve Cropperがギター、その友人のドナルド・ダック・ダンDonald Duck Dunnがベース、テリー・ジャクソンTerry Jacksonがドラム、ジェリー・リー・スムーチー・スミスJerry Lee “Smoochy” Smithがキーボードだったが、テナー・サックスを演奏するエステルの息子のパッキーPackyが自分も参加できるかと聞き、その時、何気なく母親がレコーディング・スタディオをもっていると話したのだった。
すぐにウェイン・ジャクソンWayen Jacksonとドン・ニックスDon Nixがホーン・セクションを書き込み、エステルが毎週末スタディオへ車で彼らを送った。
しかし、いったんキャピトル映画館を借りると、そこがすべての中心になり、少年たちが練習していないときは、ジムとエステルが内装するのを手伝い、古いシートをはがしてじゅうたんを敷き、カーテンをかけ、壁には吸音タイルを貼った。
近所の人たちは、起こることのすべてに注目し、ある日郵便局員をしていてソングライターでミュージシャンのロバート・タリーRobert Tallyが、友人のルーファス・トーマスRufas Thomasに、町に新しいレコーディング・スタディオができたと言った。
タリーと葬儀屋で曲を書く友人は、スタディオは完成していなかった (ジムはラジオ放送局のジングルをすでに数曲録音していた) のに、そこで数曲のデモ・セッションを行い、最新の機器とそこを運営している信頼できる白人だけでなく、出来上がりを気に入った。ルーファスはサン・レコードで「ベア・キャットBear Cat」を録音して以来、あまり多くレコーディングの経験はなかったが、レコーディングは続け、長く埋もれていたレスター・ビハリLester BihariのメテオールMeteorレーベルで数局録音したが、もちろんWDIA局の自身のラジオ番組での仕事は続けた。
ところで、8月のある日、ルーファスとまだハイスクール在学中の娘のカーラCarlaが車に乗って、マクルモア・アベニューまでやって来て、玄関に入った。
この時までに、エステルは古いお菓子売り場用カウンターでサテライト・レコーズ店を開店していて、エステルはルーファスを評判やラジオ番組で知っていた。エステルはジムに電話すると、訪問したルーファスに会ったことがあるので驚いたが、その時ルーファスはベルトーンズVeltonesのレコードの宣伝をしていた。
ルーファスの白人に対する懸念があったにもかかわらず、ルーファスとジムはシングルを出す取引をまとめたが、それは、ピアノを演奏するルーファスの息子とロバート・タリーRobert Tallyのバンドを使って、ルーファスがデュエットとして書いた「コズ・アイ・ラブ・ユーCause I Love You」を録音することだった。バンドを少し拡大することがすぐに決まり、知り合いのバリトン・サックス・プレーヤーで、ブッカーTジョーンズBooker T. Jonesという名前のハイスクールの生徒を誰かが行って連れてきた。
サテライト・レコーズ店を受け持っていたスティーブ・クロッパーSteve Cropperが入ってビターを演奏した。チップス・モマンChips Momanが制御盤を操作し、それからルーファスがテークの間に書いたB面をさっと仕上げた。セッションが終わると、ブッカーTBooker T.はモマン、クロッパーと雑談して、もし必要ならピアノも弾くと知らせた。