ツイストが黒人のティーネージャーにとって時代遅れのもであろうと、あるいは、彼らが他のティーン達より良い音楽を聴いていたのであろうと、大きな変化はまだ起きていないということは、黒人向けの音楽(そしてこの時までには、黒人が所有する)レーベルの音楽から見て明らかだった。その一部が夏にダンスをする人にどうしても必要なスロー・ダンス・ミュージックで、実際に夏の最大のレコードの一つがドリフターズthe Driftersの「ラストダンスは私にSave the Last Dance for Me」だった。
長い間作曲のパートナーだったドク・ポーマスDoc Pomusとモート・シューマンMort Shumanが書いたので、この曲を知るティーンが分かる以上に、この曲は感動的だった。
「でも、忘れないで。誰があなたを家まで送るのか、誰の腕の中に行くのか。ねえ、あなた、ラスト・ダンスは私にとっておいて。」ポーマスというのは実はジェローム・フェルダーJerome Felderのペンネームで、ブロンクス出身の白人のユダヤ人、子供のころポリオにかかり松葉杖を使っていた。
始めビッグ・ジョー・ターナーBig Joe Turnerに触発され、ハーレムで鑑識眼のある聴衆にブルースシンガーとして演奏していたが、松葉杖を使って立ち、歌うと、疲れるので、他の人に歌詞を書くように転向した。
しかし、ドクは黒人音楽が好きなので、週に数回、ダンス好きの奥さん同伴でクラブに行く。ドクは奥さんの自由にさせるが、二人一緒に家に帰ることは疑いの余地がなく、結局これがヒット・ソングになった。
他のミッドテンポのヒットには、シャーリー・アンド・リーShirley & Leeの「レット・ザ・グッド・タイムズ・ロールLet the Good Times Roll」、モーリス・ウィリアムスとゾディアックスMaurice Williams and the Zodiacsの「ステイStay」、
ジョー・ジョーンズJo Jonesの「ユー・トーク・トゥー・マッチYou Talk Too Much」、ジェリー・バトラーJerry Butlerの「ヒー・ウィル・ブレーク・ユア・ハートHe Will Break Your Heart」、
ハンク・バラードとミッドナイターズHank Ballard and the Midnitersの「レッツ・ゴー・レッツ・ゴー・レッツ・ゴーLet’s Go Let’s Go Let’s Go」があった。
(バラードはツイストの競争でチャビー・チェッカーChubby Checkerに負けたものの、結局、ツイストやレッツ・ゴーだけでなく「フィンガー・ポッピン・タイムFinger Poppin’ Time」も同時にチャート入りさせた。)
しかし、バラードの競争は疑いの余地なく、レイ・チャールズRay CharlesのABCパラマウントABC‐Paramountにおける2曲目のシングル、ホーギ―・カーマイケルHoagy Carmichaelの昔の曲「我が心のジョージアGeorgia on My Mind」が勝っていて、この曲は少しだけアレンジし、チャールズのゴスペルに浸った声によってどれほど国を恋しがっているかが伝わり、例えそこに言ったことがなくても恋しく思っていることを他の人に納得させた。
デトロイトでは、ベリー・ゴーディBerry Gordyが最終的に、レコードを定期的に出し始めるのに十分な資本を集めた。ゴーディの最初の新規契約者はリトル・ウィリー・ジョンLittle Willie Johnの妹のメイブル・ジョンMable Johnだった。
彼女はゴーディの運転手としての仕事をしていたけれど、徹底的な訓練計画を受けるためにゴーディが契約した最初の歌手だった。ゴーディは運転を覚えなかった。このレーベルにおける彼女の最初のレコードは「フー・ウドゥント・ラブ・ア・マン・ライク・ザット?Who Wouldn’t Love a Man Like That?」はヒットしなかったが、良い曲だったし、彼女は我慢した。
次はティーネイジのソング・ライターのマリー・ウェルズMary Wellsで、ゴーディに自分の書いた曲「バイ・バイ・ベイビーBye Bye Babyをジャッキー・ウィルソンJackie Wilsonに渡してくれるように頼んだ。
ゴーディーはマリーに、ゴーディ―自身の会社を持っているから、彼女とその母親に翌日寄って、持っているものを見せてと頼んだ。ゴーディはこの曲をとても気に入ったので22回のテイクをやり遂げさせ、結局R&Bのトップ・テンに入り、ポップでも多少ヒットして、ゴーディの最初の成功となったが、すぐにミラクルズthe Miraclesのゴーディにおける最初のレコードが後に続いた。