サム・クックSam Cookeもうずうずしてきた。
キーン・レコードKeen recordsでのクックのレコードは順調で、黒人市場においては非の打ちどころがないのだが、ポップの世界で考えていたほどではなかった。
いくつかの点でキーンはレコードを出すにあたって力がないと非難し、また、マネージをしているウィリアム・モリス・エイジェンシーWilliam Morris Agencyも非難した。
しかし、この代理人のしたことは、クックをRCAレコードと接触させ、1959年の末に、サムは一緒に契約書にざっと目を通した。
彼らはクックにポップをさせるという素晴らしい考えを持っていて、プロデューサーとしてヒューゴとルイジHugo&Luigiを付けた。
ヒューゴ・ペレッティHugo Perettiとルイジ・クリアトーレLuigi Creatoreは密接な関係にあり、白人アーティストがカバーするためのR&Bレコードを探す仕事をマーキュリーのためにしていたなど実績があるとともに、RCAがそれぞれに10万ドルの報酬と他の手当てを提示した時には、モーリス・レビーMorris Levyと一緒にルーレット・レコードRoulette Recordsを共同経営していた。
二人はレビーと友好的に分かれ、仕事を引き受けた。クックは二人にとって最初の大きな依頼人であり、ポップに転向させる決断をした。クックと一緒にした二人の最初の仕事は、ジェフ・バリーJeff Barryの曲「ティーネージ・ソナタTeenage Sonata」で、手を入れすぎ、オーケストラも過剰だったので、ポップ・チャートで50位どまりだった。
更につらかったのは、サムがルー・アドラーLou Adler、ハーブ・アルパートHerb Alpertと一緒に書いた「ワンダフル・ワールドWonderful World」を、キーン・レコードがリリースした時で、この曲の方がはるかに優れていて、トップ・テン近くまで行った。
ヒューゴとルイジはもう一度、、サムクックのべつのオリジナル「チェイン・ギャングChain Gang」を出してみた。
この曲で、サムは愛情をこめてガールフレンドに、一日中石を砕いて費やすことがどんなことか、そして彼女と再会することを待ち焦がれているかを歌った。奇妙な選択に見えるが2位になり、サム、ヒューゴ、ルイジは何かを見つけたようだった。
しかし、レイ・チャールズもジェームス・ブラウンもポップ・チャートを騒がすことは無かった。代わりに、二人はナッシュビル・サウンドの勝利者のように思え、ジョニー・プレストンJohnny Prestonの「悲しきインディアンRunning Bear(故JPリチャードソンJ.P.Richardsonの作」、
マーティー・ロビンスMarty Robbinsの西部劇の物語(そしてそれまで最も長くトップ・テンにいた曲)「エル・パソEl Paso」、ジム・リーブスJim Reevesの「ヒール・ハフ・トゥ・ゴーHe’ll Have to Go」、
コンウェイ・トゥエッティConway Twittyの「ロンリー・ブルー・ボーイLonely Blue Boy」、ジョニー・ホートンJohnny Hortonの「ビスマルク号を撃沈せよ! Sink the Bismarck」と共にトップの座を得ようと張り合ったが、
パーシー・フェイスPercy Faithの弦楽器インストゥルメンタル「夏の日の恋Theme From a Summer Place」に大体奪われてしまった。
それからマーク・ダイニングMark Dinningの「ティーン・エンジェルTeen Angel」が来たが、これはデートするカップルが鉄道の線路で自動車が動けなくなった時の感傷的な話だ。二人はやむを得ず車を去るのだが、女の子は男の子の指輪を取りに戻ると、そのとき列車が自動車に衝突したのだった。
このレコードはものすごく売れたので流行と思われ、死の歌がもっと登場するようになった。しかし、ナッシュビルは、ロックンロールと「良い音楽」の間の最高の場所にいて、2月中旬に別の映画スタディオが大きなチャンスを得た。ワーナー・ブラザースWarner Bros.は自社映画のサウンドトラックをほとんど発売し、衰えつつあったビル・ヘイリーBill Haleyと、トップ・テン入りを目指して契約することを承認し、ビルはすぐに南アフリカのノベルティ・ソング「スコキアーンSkokiaan」のカバーをレコーディングしたが、この曲のオリジナルは1954年のブラウェシ・スイート・ボーイズBulawesi Sweet Boysだった。
2月半ば、ワーナーズ・レコードWarners recordsは、エバリー・ブラザースEverly Brothersがケイデンス・レコードCadence Recordsとの契約期限が満了したら、再契約しないことが明らかになって以来ずっと、カントリー・ミュージック産業が待っていたことを公表した。
10年間毎年75,000ドルを保証するという空前の取引内容でワーナーズは契約したのだ。新取引の下での最初のレコードは自作の「キャシーズ・クラウンCathy’s Clown」で、今の地位を築いたレコード同様に良いものであり、それ以上に良く売れもした。