これらの曲がヒットしたのは、大出力放送局のトップ・フォーティーTop Fortyが広まったことがきっかけになり、安全な番組編成にもよるが、世代交代が進んだということにもよる。
アート・ラーボエArt Laboeというディスク・ジョッキーはロサンジェルスのスクリブナーズ・ドライブインScrivner’s Drive-InからKPOPを通じて生番組を放送し、リスナーから生でリクエストを受け付けた。
彼が気付いたことは、リスナーは現在のヒット曲より古いレコードをリクエストすることがよくあり、過去に少ししかヒットしなかった曲が、他よりも多くリクエストされることがあるということだ。ラーボエがこれでお金を儲ける方法を考え出すのに時間はかからず、自分でかけた最も人気のある12曲のリストを作成し、LPで一定の時間使用できるように貸すことを、レコード会社に持ち掛けた。これは非常に魅力的な提案で、例えばドッツィー・ウィリアムスDootsie Wiiliamsは、ドゥートーン・レーベルDootone labelを衰退させてしまっていて、彼のラフ・レーベルLaff labelのレッド・フォックスRedd Foxxなどのパーティー用レコードで存続していた。
ドッツィーは、ペンギンズthe Penguinsなどの主要財産を数年前マーキュリーMarcury recordsに引き渡したが、彼らの唯一のヒットでラーボエのリストに載っていた「アース・エンジェルEarth Angel」のマスター(と出版権)は手離さなかった。
ドッツィーはラーボエからわずかばかりの賃貸料を受け取ったが、それは「アース・エンジェル」が長年にわたって稼いだ金額より多く、ラーボエの計画がうまく行けば著作権料をもらえる。すぐにラーボエは自分の12曲を作り、レコードをリリースしたが、タイトルは、「オールディーズ・バット・グッディーズOldies but Goodies」だった。
それはアルバムチャートの2位になり、183週間チャートに留まった。頭の中で算数ができない人のために言うと、それは3年半であり、のちに7年間姉妹編が続いた。ラーボエが自分のレーベルに正直な名前「オリジナル・サウンドOriginal Sound」とつけても問題がなかったのだが、それは録音の音源がコピーではないということを買い手が知っていたからであり、あるケースでは、オールディーズ・バット・グッディーズがオールディーズに関心を再点火し、実際、1959年に「アース・エンジェルEarth Engel」で起きたように、再びチャートインさせたのだ。ラジオ局もこのトレンドを十分に理解していて、「今週のオールディーズ」と銘打った番組を始めたり、あるいは、しばらくの間、放送で書けるリストに昔のヒット曲を時々付け加えた。DJを、もう3分間ファビアンFabianにさらすよりも、思いやりがあるってもんだ。
「オールディーズ・バット・グッディーズOldies but Goodies」の聴衆は、20代、ティーン後半の年齢が高い消費者が重要な部分を占めていて、郷愁に影響を受けやすく、LPを買うためのお金を持っていそうだったが、増えつつあるフォークの動きに向いた聴衆でもあった。その動きによって、1954年からニューポート・ジャズ・フェスティバルNewport Jazz Festivalを催していたジョージ・ウェインGeorge Weinは、実験しようという気になった。
ウェインは1958年無理をしてレイ・チャールズRay Charlesを提案し、その結果素晴らしいアルバムができ、同年、ウェインはブルース・シンガーーのビッグ・メイベルBig Maybelleやチャック・ベリーChuck Berryを出演契約した。
チャックは多くのジャズ・ファンを憤慨させ、ウェインもそうだったのでベリーの有名なアヒル歩きを見ていなかった。1959年、ウェインは本格的フォーク・フェスティバルを開催すればうまく行くと考え、シカゴの友人でナイトクラブ興行主仲間のアルバート・グロスマンに、週末に向けて援助してくれるようにした。彼らは毎晩15の出し物を選び、ピート・シーガ―Pete Seegerにトップを飾らせた。
初日は大部分が、ポップな商業的ではないにせよ、商業的なフォーク・シンガーで、その中には、オデッタOdetta、ジョン・ジャコブ・ナイルズJohn Jacob Niles、クランシー・ブラザースthe Clancy Brothersがいた。
二日目は再び15のステージがあり、トップを飾ったのはキングストン・トリオthe Kingston Trio、他に、アール・スクラッグズEarl Scruggs、
スタンレイ・ブラザースStanley Brothers、ジーン・リッチーJean Ritchie、
ボブ・ギブソンBob Gibson、サウス・カロライナ出身でハーレムに住むラグタイムのギター演奏牧師のレバーレンド・ゲリー・デイビスthe Reverend Gary Davis,がいて大いに魅了した。
しかし、もしその日曜が何かのために思い出されるとすれば、それはギブソンが舞台に連れてきた18歳の美少女のせいで、その子はギブソンとデュエットしてボストンフォーク界で波を起こした。二人が「バージン・マリー・ハッド・ワン・チャイルドVirgin Mary Had One Child」を歌い終えるまでには、ジョーン・バエズJoan Baezという名前は数千人以上の人々の知るところとなった。
当時ボストンで教師をしていた原子力科学者の娘で、テッド・アレビゾスTed Alevizosというボストンのフォークシンガーのために、コンピレーション・アルバム「フォークシンガーズ・ラウンド・ハーバード・スクエアFolksingers ‘Round Harvard Square」にすでに登場していた。
このアルバムはビル・ウッドBill Woodという人もフィーチャーしていたが、見つけられず、フォーク・ミュージック・メディアにとって更に重要なことはニューヨークで見つけられないということだ。ニューポートの後援の直後、バエズはバンガード・レコードVanguardと契約したが、このレーベルはフォークミュージックを少し(そしてクラシック音楽をたくさん)リリースし、最初のニューポート・フォーク・フェスティバルNewport Folk Festivalも録音していた。