そして、ともかくサム・フィリップスSam Phillipsは、いったい何をしていたのだろう?プレスリーElvis Presleyで儲けたお金の一部を、全員女性アナウンサーのラジオ放送局KSHEに、それ以上を友人の企画であるホリデー・インというホテル・フランチャイズに投入し、そして豪華な本社も建設していた。
スタディオは10月まで準備ができていなかったが、自分で見つけた二人の新人アーティストに大きな期待を抱いていた。カール・マンCarl Mannはミシシッピ州ジャクソン出身で、16歳の新顔だったが、巡業の経験があり、ギターの技術はまずまずで、それに使える強力なテナー・ボイスを持っていたので、サムはその潜在力をすぐに見抜いた。
仕掛けもあり、フィリップス・インターナショナルPhillips Internationalにとって良いもので、ポップのスタンダードをロックで仕上げるというものだ。
マンの第1号はなめらかなナット・キング・コールNat King Coleのナンバー「モナ・リサMona Lisa」のカバー・バージョンで、それをロックで仕上げるという手法だが、それはうまく行く手法だった。
ティーンは直接サムのところに向かった。サムは何か新しいものを見つけたようだった。ヒットを飛ばしてほしいとサムが望む別のアーティストは、まったく別の手法だった。チャーリー・リッチCharlie Richはちょっと暴走族ぽくって、ちょっと酔っていたが、自分で働いているバーで、ピアノを弾き、スタンダートやジャズを歌って、曲を売り込む能力は驚異的だった。
リッチは妻のマーガレット・アンMargaret Annと一緒に曲を作り、オリジナル曲をかなりたくさん持っていた。リッチもフィリップス・インターナショナルと契約したが、サムはデビューにぴったりのタイミングとぴったりの曲を待っていた。
しかしそこで働いていた人達によると、何かがサン・フィリップス・インターナショナルthe Sun Phillips International の事業から無くなってしまった。彼らが失ったものは、マイクロフォンの両側にいたタレントよりも大事な何かだった。サムは、まだジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewisを信じていたが、マリオン・ケイスカーMarion Keiskerが出て行ったあとは、今まで以上にラジオ放送局の売買に関心を持つようになった。
夏は流行にとって厳しい環境になる。ティーネージャーは学校が休みになり、学校がある時よりも長く働ける仕事に多くの生徒が就くので、使える収入が増え、レコードに費やす者もいる。しかし買うレコードの種類が変わる。例えば、チャック・ベリーChuck Berryは、まだほとんどの時期(イタリア訛りの失敗作「アンソニー・ボーイAnthony Boy」 は除く)に良いレコードを作っていて、1959年の最初のリリースはティーネージャーの良くできたプロテスト・ソングで、R&Bチャートで3位、ポップ・チャートで32位止まりだったが、B面の「リトル・クイーニーLittle Queenieは80位に終わった。
彼の愛国的続編「バック・イン・ザUSA Back in the U.S.A.」は、世界ツアーの後、帰国を祝ったもので、R&B16位、ポップ37位になった。
そして名作と考えられている「メンフィス・テネシーMemphis, Tennessee」」は、不在着信にかけ戻そうとする男の素晴らしい物語だが、ベリーが最後の詩で明かすように、遠くにいるガールフレンドではなく、別居中の妻と暮らす6歳の娘からで、何度もカバーしたが一度もチャートインしなかった。
その代わりに夏の初めヒットした曲があった。ジミー・ドリフトウッドJimmy Driftwoodが書いた歴史的な曲「ニューオーリンズの戦いThe Battle of New Orleans」で、ジョニー・ホートンJohnny Hortonがフォークの流行を半ば掘り起こし、
ジャングル・サウンドを入れたマーティン・デニーMartin Dennyの「クワイアット・ビレッジQuiet Village」、ロイド・プライスLloyd Priceのべつの大作「パーソナリティPersonality」、
リーバーとストラーLeiber and Stollerがリトル・ウィリー・リトルフィールドLittle Willie Littlefieldのために書いた初期のヒット曲「KCラビングK.C.Loving」、特異なワン・マン・バンドのウィルバート・ハリソンWilbert Harriosnによって作り直された「カンサス・シティKansas City」。
そういえば、ボビー・ダーリンBobby Darin、コニー・フランシスConnie Francis、ファビアンFabian、フランキー・アバロンFrankie Avalon、カール・ドブキンス・ジュニアCarl Dobkins Jr.、ブラウンズthe Brownsによる「良い曲」もあった。