1960年頃、音楽業界に入ってきた人のすべてが、ベリー・ゴーディBerry Gordy, Jr.ほど多くのことを知っていたわけではもちろんなかった。
メンフィスのサン・レコードSun Recordsを離れた人はたくさんいた。
その中に、サム・フィリップスの兄ジャド・フィリップスJud Phillipsがいてジャド・レコードJudd Recordsを立ち上げた。
サンにおけるかつてのスタディオ・ミュージシャンのエディ・ボンドEddie Bondはストンパー・タイム・レコードStomper Time Recordsを始めた。
スコッティ・ムーアScotty mooreは、エルビスが入隊する以前でも仕事がなくなり、ファーンウッド・レコードFernwood Recordsのパートナーになった。
バディ・カニンガムBuddy Cunninghamはサムのところでカントリー・レコードを数曲出し、カバー・レコードCover Recordsを始めた。
ビル・ジャスティスBill Justisとジャック・クレメントJack Clementは1959年3月にサムが解雇したが、それぞれ、プレイ・ミー・レコードPlay Me Recordsとサマー・レコードSummer Recordsを始めた。
その一方で、サムは新たにフィリップス・レコーディング・スタディオPhillips Recording Studioをマディソン639番地に開所した。
もう一人の、以前サンにいたアーティストのレイ・ハリスRay Harrisは、サン・レコードで演奏していたインストロメンタル演奏者のクイントン・クロンチQuinton Clanch、ビル・キャントレルBill Cantrellの二人と組んでハイ・レコードHi Recordsを始めた。
投資資金はレコード店オーナーのジョー・クオギJoe Cuoghiと数名のサイレント・パートナーが出し、別のエルビスの仲間のビル・ブラックBill Blackの演奏でインストルメンタル・レコードを出し始めた。
それからジム・スチュワートJim Stewartだ。スチュワートは銀行員でメンフィスでは定評があったが、大好きな趣味があり、それはカントリーのフィドルだ。ジムとその姉妹のエステル・スチュワートEstelle Stewart Axton(エステルも銀行員)は音楽が大好きなロックンロール・ファンで、最新の曲を追いかけていた。エステルの同僚は、彼女のヒット挙Kを見極める能力に驚いたが、間もなくエステルは地元の卸売店まで走って行ってレコードを買い、職場で同僚に売って儲けた。ジムはその工程の反対側にいた。ジムのいく床屋はマーシャル・エリスMarshall Ellisがやっていて、定期的に散髪したが、カントリー・ソングも書いて録音し、そのうちの一曲がカントリー・スターのハンク・ロックリンHank Locklinに取り上げられ、エリスが著作権を持っていたので、大金を手にすることになった。
ジムはそれを商売にして出版会社を始め、スプートニクにちなんでサテライト・レコードSatellite Recordsという名前のレコード会社を、フレッド・バイラ―Fred Bylerというディスク・ジョッキー等他の数名と一緒に共同経営した。
彼らはガレージにカーテンを吊るし、ジムの曲など数曲をバイラーが歌っているのを録音した。それは大失敗に終わったが、ジムは夢中になった。次にジムはロカビリー・ナンバーをやる地元の男をレコーディングしたのだが、それを聞いた人々によると本当に良かったという話だった。しかしエリスが出版のことをその男に教えたものの流通については何も知らなかった。やがてエリスは引っ越し、自分のテープ・レコーダーも持って行ってしまったのだが、ジムの新しい床屋には娘がいて、ジムは才能があると思った。そのうえ、その床屋はテネシー州ブランズウィックに貯蔵用ビルディングを持っていて、20マイル離れていたが、レコーディング・スタディオを開くために使わせてくれた。ジムは事業をブランズウィックに移転し、そしてエステルは新事業にとりつかれ、アンペックス350プロ用コンソール・テープ・レコーダーを、サテライト・レコードが使えるように買うため、自分たちの家を担保にして2500ドル借りることを、夫に説得した。
その後どこからともなく黒人男性5人組のベルトーンズthe Veltonesが現れたが、過去にサン・レコードのために歌ったハーモニーのシングルが未発表で、とても素晴らしい曲「フール・イン・ラブFool in Love」も用意されていた。
彼らがどうしてブランズウィックに行くことになったのかというのは良い質問で、エステルの息子のチャールズ・パッキー・アクストンCharles “Packy” Axtonが好きでよく行っていた黒人バーで大酒を飲んでいる時にたまたまであった。
あるいは、リンカーン・ウェイン・チップス・モーマンLincoln Wayne “Chips” Momanがブランズウィックに行くのを勧めたのだが、リンカーンは、できたばかりのレーベルでエンジニア契約をする前、サン・レコードのビリー・リー・ライリーBilly Lee Rileyと一緒にギタリストとしてツアーに行き、「フール・イン・ラブFool in Love」の著作権を半分持っていた。どのようにしてブランズに行ったにせよ、ベルトーンズは「フール・イン・ラブFool in Love」をレコーディングし、ジムはそれをサテライト100として9月にリリースした。